2016年05月27日

ジョージ・オーウェル「1984」について、それを全体主義の悪夢を描いている、とだけ捉えること
は明らかに間違っている。それは表面的な読書であって、この小説のおもしろさが全然わかっていない。

1984は、文学でもなく、ゲームでもなく、ましてやアートでもないなにものか、である。

ニュースピークという新言語。ダブルシンクという思考法。オセアニア、ユーラシア、イースタシアという
大国がある世界。
確かにその舞台であるオセアニアは、ビッグブラザーに独裁され、国民の思想を徹底的に操作する
ための恐怖政治が描かれているが、これは恐怖政治の恐怖そのものを描いているのではなく、
恐怖政治のために虚構が積み重ねられていく、という、現代の文学やアートでもテーマとして成立しうる
問題がテーマになっている、ということに気づく。

まず、オセアニアは本当にユーラシアと戦争をしているのかどうかがわからない。国民には毎日その
戦果が放送され、国民は各地での勝利に狂喜する(ふりをする)のだが、戦闘のシーンはない。
また、反革命分子の指導者として、国全体の敵として宣伝されているゴールドシュタインが本当に
実在するのかもわからない。

それよりも何よりも、オセアニアの指導者(独裁者)、ビッグブラザーが本当に実在するのかどうか
さえ分からない。街中に貼られている「BIGBROTHER IS WATCHING YOU(ビッグブラザーは
いつもあなたを見ている)」のさえ、本当なのかどうかはわからない。

すべてが虚構の上に成り立っている。

つまりこの物語は、読者に虚構としての作品を展開するだけではなく、その物語中の登場人物(国民)
たちにも虚構を布いている。

虚構によって虚構を描く。
ピキピキくる作品である。 


myinnerasia at 07:03|Permalinkピキピキ | 虚構

2016年05月26日

筒井康隆について語ることは危険だ。
特にそんなにたくさん読んだわけでもない僕なんかがヘタなことを言おうものなら、本物の
ツツイストたちにどんなことを言われるかわからない。
先に白状しておくが、僕は筒井康隆をそんなに読んだわけではない。

ただ言えることは、ツツイストたちも僕も、筒井康隆について語ってはならない、ということだ。
語ってはならない、という以前にその構造上、語ることが不可能である。

筒井康隆について語ることは、次の例に似ている。
僕たちプログラマーの中では何らかのかたちで普通に関わることになる"GNU"というプロジェクトがある。
このGNUというプロジェクト名は何の頭文字を取ったものか、というと、、、

 GNU is Not Unix.

である。
ではこの文の主語である"GNU"とは?と考えると、、、

  GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix.
  GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.
  GNU(GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.

  ...

となり、無限地獄に陥ることになる。
"G"が何の頭文字なのかはわからない。

筒井康隆について語ることは、これと同じだ。

筒井康隆は、「着想の技術」の中で、小説の虚構性について徹底的に分析している。
「虚構」をテーマにしてきた筒井康隆にとって、それを分析したものを発表する行為自体の
メタフィクション性について語ることは、上記の理由のとおり不可能である。
ただ、「虚構」について深く考えようと思うのであれば、たとえば唯野教授の授業を
受けているつもりで現代思想を学ぼう、というつもりで「文学部唯野教授」を読む、、というものと
同じ態度で、「着想の技術」 を読んでみることはアリ。

そういう読み方が正しい。

「虚構」というテーマは、筒井康隆やその他のメタ・フィクション文学だけのものではなく、
現代において作品を創るときには外せないテーマのはずで、90年代あたりの現代アートでも
そこが一番のテーマであった。そして、一度それをテーマにしてしまうと、その無限地獄からは
逃れることはできなくなり、 未だに現代アートのテーマとして根底にあるものになっている。

、、、などと書いてみることも馬鹿げたことで、そもそも「アート」というもの自体が虚構であって、
その虚構性を暴いたのがマルセル・デュシャンであったとするなら、その虚構性を再構築しようと
する試みが90年代以降の現代アートの位置づけである。

僕が表したいなにものかについて、「ましてやアートでもないなにものか」 としか言いようがないのは、
その虚構性に気づかないままに飲み込まれ、その虚構の中で虚構性の再構築に加担している、
と思いたくない、という気持ちがあるからかも知れない。まだまだ未熟者だ。
その点、さすがに筒井康隆はそういうところはとっくに乗り越えたところから「着想の技術」を書いている。

やっぱり筒井康隆については語ってはならない。 


myinnerasia at 06:00|Permalinkピキピキ | 虚構

2016年05月25日

ぬか漬けが小アジアであるというのであれば、ケフィアも当然小アジアである。
ケフィア自体はロシアのコーカサス地方が発祥とのことなので、「どこがアジアだ?」という
ツッコミもあるだろうが、間違いなくアジアである。

ケフィアはぬか漬けと同じく、数十種類の乳酸菌と、数種類の酵母菌からなるものである。
乳酸菌とともに、酵母菌も含まれる、複合発酵であるため、発酵中にガスが発生する。そのため、
密閉容器で販売することができない。
日本の法律ではそこが引っかかるらしく、密閉していないヨーグルトを売ることはできないのだとか。
現地では容器にガス抜きの小穴を空けて売っているらしいが。

一時、「ヨーグルトキノコ」として日本でも流行したことがあるのを覚えている人もいるだろう。
飲料として販売することができない日本では、ケフィアは、粉末の菌種として売られていて、それを牛乳に
混ぜて一日程室温で置いておくことで自分で発酵させるものだが、本来はそれは本物のケフィアと
呼べるものではない。

本来のケフィアとは、かつて「ヨーグルトキノコ」といわれたケフィアグレインに、牛乳を混ぜて作るものである。
ケフィアグレインは、ケフィアを構成する酵母菌などが生成する結合物で、カリフラワーに似たかたちを
している。
このケフィアグレインと牛乳を混ぜた小瓶の中は、一晩で小アジアに様変わりする。
口の中でシュワシュワとするヨーグルトのような飲み物。
それを構成する乳酸菌と酵母菌の種類と数から、腸の健康、アレルギー改善、ダイエットへの
効果がとても大きいらしい。

一晩で牛乳が、おいしくて、健康的で、シュワシュワする飲み物に変わる、という意味で、
これもまた錬金術と言えるものである。

ケフィアはぬか漬けと同様、育てることに楽しさがある。
育てているうちに、ケフィアグレインはみるみると大きくなる。
また、発酵させる時間や、気温によって、味が変わり、シュワシュワする感じも日毎に違う。
そこがおもしろい。 

myinnerasia at 22:55|Permalinkアジア 
ぬか漬けは数種類の乳酸菌と酵母、それとあまりありがたくない雑菌がせめぎあう小アジアだ。
毎日かき混ぜることによって、酸素を好む菌と酸素を嫌う菌をその上下で入れ替える、という
作業がその旨味を引き出すコツ。

ぬか漬けを作ることの楽しさは、この小アジアを育てていく楽しさであり、いわばSim Cityのような
ゲームをしているような感覚になることができる。
かき混ぜを一日サボると途端にそのにおいに変化が現れたり、育てこむことでどんどんその味が
熟れて(なれて)きたり、とまさに育成ゲーム感覚だ。

特にこの「育てこむことで熟れる」という特徴のため、世間には「◯十年育て続けた」という
ビンテージもののぬか床もあり、これからぬか漬けを始めようという人がそれを新しいぬか床に
少量混ぜ込むことによって、その数十年の味を引き継ぐ、ということもできる。

そして何よりもぬか漬けは美味い。
塩味と酸味とぬかやその他の混ぜものによる旨味のハーモニー。。。たまらん。
生で食べられる野菜を一晩浸けこむだけで、あの味に変わるということがすばらしい。
実際、漬物屋で売られているぬか漬けは、元の生野菜よりも数倍の値段で売られている。
一晩かまる一日漬けたというだけで値段が数倍に跳ね上がるとは、まさに錬金術だ。

何を漬けるか、を考えるのが楽しい。
きゅうり、ナスは定番であるが、僕はみょうがやセロリを漬けたものが好物。
他にも、ゆでたまごや魚類を漬けたものまである。やったことはないけど。

ぬか漬けをすることのもうひとつの楽しみは、そこに色々なものを混ぜ込むことだ。
昆布と鷹の爪は定番であるが、旨味出しのために鰹節や煮干し、アミエビなどの動物性のもの
を入れる人もいる。
この季節は実山椒が出回る季節で、実は僕も先週、実山椒を買ってきてぬか床に入れておいた。
実山椒は「サンショール」という成分に殺菌効果があるらしく、これからの季節、ぬか床の
腐敗防止と、乳酸菌の過発酵による「すっぱすぎ」防止に役立つはず。

ぬか漬けに小アジアを感じること、それを育てることの楽しさ、というところに僕の作品の本質への
ヒントが隠されている、とずっと思っている。 

myinnerasia at 06:16|Permalinkアジア 

2016年05月24日

C(imm)-004 from tesh nakamura on Vimeo.

世の中のダメなものたちを、さんざんゲスでヤンスボサノバなどと罵った後で自分の作品を
ここに挙げるのは勇気がいる、わけでもない。
自分の作品には責任を持って制作しているし、自分の考えを伝えるためには世の中のダメなもの
をゲスでヤンスしていく必要がある。

C(imm)シリーズは、ゲームでもなく、科学でもなく、ましてやアートでもないなにものかについて、
「アジア」という言葉を思いつく以前に創った作品である。
当時はその言葉の意味を明らかにはしなかったのだが、C(imm)とは"City (in my mind)"の略である。

(私の心の中の)街。
「アジア」以前は"それ"を"City"と呼ぼうとしていた。 

 このC(imm)シリーズは、当時試そうと思っていた、CGでのある描画技法について検証するための
試作ではあったが、このシリーズの延長上に、僕にとっての「街」を描く、という意味があった。

創る者の意図から大きく飛躍して、 創る者でさえ想像できなかった展開を見せる作品=街。=アジア。
実際にこのかたちと色はプログラミングで計算されて描かれるものであるのだが、それをプログラミング
した僕にさえ、どういうかたちになるのかは想像ができなかった。
 

myinnerasia at 07:08|Permalink作品 | アジア