2016年08月17日
「人工知能美学芸術」という言葉から「知能」を外してみよう、という試み
第二回AI美芸研を傍観していて、僕はずっと気になっていることがあることに気づいた。
「人工知能美学芸術研究会」および「人工知能美学芸術宣言」という名前について、中ザワヒデキが考えていることは、もしかすると「人工知能」ではなくてもいいのではないだろうか、ということである。
Dの領域、つまり「機械が行う美学-に照らして-機械が行う芸術」を実現するために「知能」は必要なのだろうか?
そもそも、「AI美学芸術」という言葉は同義反復である。
英語にすると、「美学」はaestheticであり、芸術はartということになるのであろうが、「人工」を表すartificialという言葉はartと語源が同じものの変化形のようなものだ。
「人工知能美学芸術研究会」および「人工知能美学芸術宣言」という名前について、中ザワヒデキが考えていることは、もしかすると「人工知能」ではなくてもいいのではないだろうか、ということである。
Dの領域、つまり「機械が行う美学-に照らして-機械が行う芸術」を実現するために「知能」は必要なのだろうか?
そもそも、「AI美学芸術」という言葉は同義反復である。
英語にすると、「美学」はaestheticであり、芸術はartということになるのであろうが、「人工」を表すartificialという言葉はartと語源が同じものの変化形のようなものだ。
artという英語はラテン語のarsであり、これはギリシャ語のテクネーに相当する。
つまり、"自然"の反対語として、"人間の手によるもの"を指している、ということからもartとartificialは同義語の品詞が違うだけのものということがわかる。
だいたい僕は「美術」と「芸術」の違いは全然分かっていないし、どちらもartを無理矢理日本語にしたものだろう、ぐらいにしか思っていない。そこに「美」なんて入れるからややこしくなったのだ。「芸」ならわかるが。「芸」なら確かにテクネーだわな。
そして僕は「美学」というものもよくわかっていない。「芸術」と何が違うのか?おそらく「芸術」に対して批評的な位置づけにあるものを「美学」というのであろう。
だけど僕は「人工知能美学芸術」という言葉には3回ぐらい同じ意味の言葉が繰り返されているように感じてしまうのだ。たはは。
さて、先程もちょっとだけ書いた「人工知能美学芸術」には「知能」という言葉は必要ないのではないか?ということについて。
知能の定義を伝統に従って「チューリングテストに合格すること」とするのであれば、中ザワヒデキが言う意味での「機械による美学」は明らかに知能を持つ必要はない、ということになる。
チューリングテストは飽く迄も最終的な評価を人間に委ねるものである。
人間がそれを「人工的なもの」と判別できなければそれを知能と呼ぶことができる、という定義は、中ザワが言う「機械による美学」には当てはまらない。なぜなら、"人間が"それを「人間と区別が付かない」と感じることは、評価関数が人間側にあるからだ。
では「人工」についてはどうだろうか?
「人工」とは、「(自然ではなく)人間が作った」という意味であることは言うまでもないが、ここで「美学」を「評価関数」としてしまうのであれば、「人工評価関数」というのは中ザワの意図するところと違う意味になってしまうことになる。
ここでの「人工美学」とは、そういうことではなく、「(人間が作った、”評価関数を自ら創りだす"知能」ということになる。つまり、「(たとえその知能を作った当の本人である人間が、その評価基準を共有できないとしても)自ら評価基準を創りだす知能」というものがDの領域の片側の軸(「機械が行う美学」)を受け持つことになる。
という意味でやっぱり「知能」はいるのか?
うーん、この堂々巡りはしばらく答えが出そうにないが、この堂々巡りは楽しいぞ。
つまり、"自然"の反対語として、"人間の手によるもの"を指している、ということからもartとartificialは同義語の品詞が違うだけのものということがわかる。
だいたい僕は「美術」と「芸術」の違いは全然分かっていないし、どちらもartを無理矢理日本語にしたものだろう、ぐらいにしか思っていない。そこに「美」なんて入れるからややこしくなったのだ。「芸」ならわかるが。「芸」なら確かにテクネーだわな。
そして僕は「美学」というものもよくわかっていない。「芸術」と何が違うのか?おそらく「芸術」に対して批評的な位置づけにあるものを「美学」というのであろう。
だけど僕は「人工知能美学芸術」という言葉には3回ぐらい同じ意味の言葉が繰り返されているように感じてしまうのだ。たはは。
さて、先程もちょっとだけ書いた「人工知能美学芸術」には「知能」という言葉は必要ないのではないか?ということについて。
知能の定義を伝統に従って「チューリングテストに合格すること」とするのであれば、中ザワヒデキが言う意味での「機械による美学」は明らかに知能を持つ必要はない、ということになる。
チューリングテストは飽く迄も最終的な評価を人間に委ねるものである。
人間がそれを「人工的なもの」と判別できなければそれを知能と呼ぶことができる、という定義は、中ザワが言う「機械による美学」には当てはまらない。なぜなら、"人間が"それを「人間と区別が付かない」と感じることは、評価関数が人間側にあるからだ。
では「人工」についてはどうだろうか?
「人工」とは、「(自然ではなく)人間が作った」という意味であることは言うまでもないが、ここで「美学」を「評価関数」としてしまうのであれば、「人工評価関数」というのは中ザワの意図するところと違う意味になってしまうことになる。
ここでの「人工美学」とは、そういうことではなく、「(人間が作った、”評価関数を自ら創りだす"知能」ということになる。つまり、「(たとえその知能を作った当の本人である人間が、その評価基準を共有できないとしても)自ら評価基準を創りだす知能」というものがDの領域の片側の軸(「機械が行う美学」)を受け持つことになる。
という意味でやっぱり「知能」はいるのか?
うーん、この堂々巡りはしばらく答えが出そうにないが、この堂々巡りは楽しいぞ。