偶然性と偶然性の中に(たまたま)生まれる意味についてスクリプト言語

2016年09月20日

スクリプトとアドリブ

ジャズの醍醐味はアドリブにある。
譜面通りに演奏するジャズはつまらない。
これはお笑いや演劇など、時間を持った芸に共通するものだろう。

緻密に創られたスクリプトがあって、その場の空気やノリによって、少しだけ変化を加えること。
 

「アドリブ」の本来のつづりは「アド・リブ(ad lib)」であり、これはラテン語で「自由に」という意味だとか。
ただ、アドリブが「自由」であったとしても、「目の前に白い紙を渡されて、さあ、自由に好きなものを描きなさい」と言われる自由とは訳が違う。

ものは(ある程度の)不自由さの中からしか生まれない。
建築における力学的制限(ものは宙を浮かない)や法律的制限、あるいは伝統芸能における"型"などに見られるように、人間が創りだすものはいつも不自由さの中から生まれている。

そして本来「自由に」という意味の「アドリブ」にとっての不自由とは、「スクリプト」である。

それは、音楽にとっては譜面であり、演奏者がその譜面通りに演奏する、という不自由さにちょっとだけあそびをいれることを「アドリブ」という。
また、演劇やお笑いにとっては台本である。その場の観客の空気やノリによって、緻密に創られた台本にないセリフを入れてみたり、観客とのやりとりを交えてみたりする。

このあそびによって、音楽や演劇、お笑いはライブ感をもつようになり、記録物(ライブ盤DVDやCDなど)では味わえない臨場感を持つようになる。スクリプトにアドリブが入ることで、二度とないバージョンができあがる。

では、スクリプトという不自由が完全になくなってしまった完全に自由な創作物とは何になるのだろうか?

それは、偶然性音楽であり、アクションペインティングである
スクリプトという予定調和を一切排除し、完全に予定不調和になったもの。
「意味」は一切排除される。
これはフーリエ変換でたとえるのであれば、あらゆる周波数の波が同じ大きさでまんべんなく混じったホワイトノイズ、つまり周波数と振幅のグラフが完全に水平になったものである。
fourier2
これは、要するに完全なデタラメである。FMラジオでどこの局にもあっていない時の"サー"という音。

これに対立する概念として、このグラフが垂直になっているものはひとつだけの周波数が存在するもので、要するに完全に退屈なものである。
fourier3
この話の流れでは、「スクリプトに忠実に演じられた演奏はフーリエ変換では垂直グラフになる」と書きたいものだが、そう簡単ではない。
なぜなら、そのスクリプト自体はつまらないものを作ろうとして書かれたものではなく、その展開におもしろさ、意外さというものを緻密に演出したものになっているはずである。
つまり、そのスクリプト自体は垂直でも水平でもない絶妙な傾きを持ったスペクトル分布をしたもので例えられるべきものである。
fourier4
ここでの傾きが-1になるものを1/fゆらぎと呼ぶわけであるが、ここではその傾きがいくつになるかなどはどうでもいい。たとえているだけなんだから。
それよりも、このスクリプトにちょっとだけアドリブを加えることがどうたとえられるか、ということが肝心である。

スクリプトにちょっとだけアドリブが加えられることによって、元のスクリプトの筋が変わってしまった場合、それはもはや「アドリブ」とは言わない。
つまり、アドリブとは大筋を変えてしまわない程度のものでなければならない。
緻密に創られたスクリプトに少しだけのノイズを加えることによって、ライブ感をもたらすことは、フーリエ変換でのスペクトラム分布で例えるなら下図のようになる。
fourier6
この「あそび」によってはスクリプトの大筋は変えられることがないままに、そのランダム性の程度を表す傾きを替えることはなく、ランダム性そのものに少しのゆらぎを加えている。

アドリブというものはこうあるべきである。 

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myinnerasia at 08:35│Comments(0)創ることについて 

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