できるだけわかりやすく説明してみるという実験:人工生命=ダーウィンの進化論を模倣したアルゴリズムダジャレを復権させよ

2016年06月29日

中ザワヒデキが夢見る、夢を見る人工知能の夢を見る人工知能の(以下繰り返し)

今年の4月に発表された、中ザワヒデキの人工知能美学芸術宣言に伴って発足された人工知能美学研究会一回目の研究会がつい先日行われた。

もう20年以上前のことになるが、僕は大学院時代に建築学科でニューラルネットを研究し、「コンピューターに形態理論は理解できるか?」、さらには「ニューラルネットが学習によって得た知識から新たなデザインを創りだすことは可能か?」というテーマに本気で向き合っていた。当時の建築学科では異端扱いされながらも、建築学会では僕がその分野の第一人者だった。なぜなら僕しかやってなかったから(笑)。

そんな僕にとって、この「人工知能美学芸術宣言」は無関心でいられない問題であり、野次馬根性も少しあったので、第一回AI美芸研に参加してきた。
「研究会」という硬い名前が付けられながらも、一般の参加を受け入れてくれる、というのは非常にありがたいことで、遠巻きに恐る恐る見てみる、という野次馬にもちょうどよい。
僕の場合はこの問題に無関心でいられない立場なので、「野次馬以上恋人未満」だったわけだが。

「無関心でいられない」とは言うものの、僕はこのところ騒がれている「第三次AIブーム」についてかなり冷ややかに見ていて、この研究会の発起人が20名以上いる、というところから、色々な立場の人が、色々な目線で、色々変なことを言う人もいるんだろうな、と半分は期待、半分は行く前からウンザリしながら行ってみた。

中ザワヒデキを含め3名の登壇者がそれぞれの立場から発表を行い、また、客席からもするどい意見、質問が投げられる活発な研究会ではあったが、やはり行く前からの予想通り、各参加者(登壇者&客席)のレベル差、温度差が感じられるものだった。

「人工知能」という言葉遣いはファンタジーである。
人工的に知能を作ること。
基本的にコンピューターはプログラムによってアルゴリズムを実現するものである以上、「人工知能」という言葉がファンタジー、すなわち「見立て」である、ということを我々は忘れがちである。
この問題には常に「『知能』とは何か?」という哲学的問題が先立つはずで、世の人工知能研究者の多くはこの問題をとばしたまま、その技術的な応用に先走っている。
そしてそこではそれがファンタジーであるということをあっさりと忘れたまま、「コンピューターが自ら考えて◯◯をした」という言葉遣いをしている。
それがいつも僕を退屈にさせる。そして退屈だから今回もブームで終わることが目に見えている。

おそらく中ザワヒデキは僕と同じ危機感を持ってこの宣言を行っているのだろう。

AI美芸研の各参加者にレベル差、温度差があったこと。
そのレベル差、温度差も含んだまま、色々な考え、色々なバックグラウンドの人を集めてこの問題に取り組もう、という「場」を作ること。
この「場」を作るということこそが中ザワヒデキの今回の作品であり、宣言文も、研究会も、中ザワヒデキのパフォーマンス(芸術作品的な意味での)であり、これらすべてがコンセプチュアルアートである。
ここで中ザワヒデキが使っている「人工知能」という言葉は、世間で騒がれているものとは違うものを指している。

この「人工知能美学芸術宣言」に先立って行われた、中ザワヒデキ展「ソースと実行」と今回の「人工知能美学芸術宣言」との繋がりを考えれば、今回のものが中ザワヒデキのコンセプチュアルアートとしてのパフォーマンスであることがよくわかる。

「ソースと実行」展では、HTMLのコード自体を展示する、というコンセプチュアルなもので、そこで実行される結果よりも、ソースの側こそを作品主体とする、というもので、これは僕が長年思い描いている「瞑想するコンピューター」を連想させるものであった。
その告知ページのトップにもある「ソースと実行第四番」という作品は、コード内のコメント("<!--"と"-->"ではさまれたところ。ここはコードとしては無視して実行される。)にもある通り、何も表示しないものである。

nakazawa_img1
中ザワヒデキ「ソースと実行第四番」

これは、「瞑想するコンピューター」で僕が書いた、「計算結果を表示する二行目を書き忘れたプログラム」と同様、実行した人間に何ももたらさないもので、つまりこのときコンピューターはただ内部だけで自己完結している。言いかえれば瞑想している。さらに言いかえれば、これは技術的に何の機能も持たない、「純粋なプログラム」とでも呼ぶべきものである。

僕は、人工知能に可能性があるとすれば、技術的な応用に先走る前に、まずは人工知能自体が"純粋に"知覚だけをする、というところから始めるべきである、と考えている。(そして僕の興味は、より技術的な応用の可能性がない、人工生命の研究に移ってしまった。)
そういう意味においても、「人工知能美学芸術」という言葉に「美学」という言葉が使われていることは救いである。

人工知能において、「『知能』とは何か?」という問題をざおなり("おざなり"なのか"なおざり"なのかよくわからないので(笑))にしてはならないのと同様に、「人工知能美学芸術」について語るのであれば、「知能」に加えて「『美学』とは何か?」、「『芸術』とは何か?」という問題をないがしろにしてはならない。
まだ始まったばかりのAI美芸研なので、それについては今後語られていくことであろう。というよりかは、むしろそのことを語るための場というものを中ザワヒデキは作ろうとして今回の動きになっているように見える。

先日、中ザワヒデキはTwitterで次のような補足説明ととれるツイートをした。

さらにこれに続き以下の補足があった。

ここでは明らかに意図的に「『美学』とは何か?」、「『芸術』とは何か?」という問題についての定義を避けている。
「それをこれからみんなで語りましょう」と言っているように見える。

美学というものが「行う」ものなのか、という疑問は残るが、「美学」というものを仮に「『美』の本質に取り組む学問」であるとするなら、「美学芸術」というものには「批評性を持った知性」、すなわち「自己言及性」を持つことが必要となる。

Dを待望する中ザワヒデキは、「美学芸術」を"行う"人工知能というものは「自己言及性を持っている」ということが可能となることで「達成した」と言える、と考えている。
自己言及性を持つコンセプチュアルアートまでを含んだ芸術を実行するコンピューター。
。。。飛躍しすぎだ。

その「『D』の待望」自体が中ザワヒデキのコンセプチュアルアートであることを考えれば、「D」を待望することそのものも人工知能が実現できるようになることで中ザワヒデキの夢は完成するということか?

オープンソース界の中心であるGNUというものが、"GNU's Not Unix!"の頭文字をとったものである、ということを思い出す。

GNU's Not Unix!
GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix! 
GNU(GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!)'s Not Unix! 

Dの夢をみる人工知能の夢をみる人工知能の夢をみる。。。人工知能は果たして可能か?
僕は野次馬以上恋人未満という立場でいつづけることにしよう。 

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