日本語は話せますか?偶然性と偶然性の中に(たまたま)生まれる意味について

2016年09月15日

無限の猿定理と自然界に存在する”意図”

チンパンジーにタイプライターを与える。
チンパンジーは嬉しそうにキーを叩き始める。

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チンパンジーがタイプライターを叩き続けるうちに、偶然に意味のある単語が含まれることがある。
タイプライターのキーの数はおよそ100だと言われているので、このチンパンジーが"chimpanzee"とタイプする確率は、 100の10乗分の1だ。100,000,000,000,000,000,000、つまり京のもう一つ上の垓という呼び方を使って、「1該分の1」ということになる。
ちなみに"monkey"であれば、100の6乗分の1なので、「1兆分の1」ということになる。

そして、このチンパンジーが充分長い時間タイプをし続ければ、やがてシェイクスピアの戯曲を"偶然に"書くことが起こりうる。これは、科学でよく使われる「充分に長い時間」というのがミソで、本当に充分に長い時間(宇宙が生まれてから今までの時間ぐらいの)タイプし続ければ、シェイクスピアの戯曲が現れることが「確実である」とされている。

これを「無限の猿定理」という。
 

つまり、無限とはそういうことである。

チンパンジーがデタラメにタイプしたものは当然のことながらランダムな文字列である。

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これはエントロピーで言えば、エントロピーが高い状態である。
何の規則性も持たない、意味のない文字列。

それに対し、人間が言語として書いた文書はエントロピーが低い状態であるといえるのだろうか?
やがてエントロピーが高い状態へと崩れていくポテンシャルを持った。

"充分に長い時間"繰り返されるデタラメの中に、偶然に意味のある文書が現れることについては、そこには"意図"が含まれていないから、エントロピーの高さは保たれているが、そこに意図が加わることによって創られた文書については、エントロピーが低い状態である、という言い分も考えられる。

ここで、その"意図"というものについて考えてみる。
リチャード・ドーキンスが突然変異と自然淘汰について説明する際にこの無限の猿定理を引用している。
ドーキンスは、ランダムに文字を生成するコンピューター・プログラムが出力した文字が、目的の言葉(シェークスピアの戯曲のセリフだったと思う)の一部になったときにそれを固定し、、、ということを繰り返すことによって、最終的にはその目的の言葉にたどり着く、というシミュレーションをした。
このときの、「目的の言葉の一部が現れたらそれを固定する」ということが、自然淘汰に相当する、というわけだ。

つまりドーキンスによれば、自然淘汰というものは自然界に存在する"意図"ということである。
その意図により生命が進化し、生態系を形作るということだ。
この"意図"とは言い換えればネゲントロピーである。

そして今のところ生命の進化の最先端にいるはずの人類が、タイプライターで意味のある文書を叩くということもまた、この自然界の"意図"の結果であり、そういう意味で、人間によって書かれた意味のある文書もまた自然現象のひとつであるということができる。

猿に、宇宙の年齢ほどに充分に長い時間を与えたなら、その充分に長い時間の間に進化を繰り返し、やがて意味のある文書をタイプするだけの知恵を身につけるだろう、ということも考えられる。
その事自体も自然現象であり、そこで書かれたものが意味を持つ文書になったというのはネゲントロピーによるものである、ということだ。 

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myinnerasia at 08:09│Comments(0)メタロジック | 生命

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