解釈は観る人に委ねます

2016年10月25日

美しいコード

昔は「プログラム」と呼んでいたものがいつのころからか「コード」というようになった。
今でも「プログラム」という言葉は使われているが、「コード」と使い分けられていて、「プログラム」という場合はアルゴリズムから、それを実行した時のものまでをも含めて広い意味で使われているのに対し、「コード」はそのプログラムを表したテキストそのものを表しているように思う。

「コード」は「ソースコード」や「ソース」と呼ばれることもある。
つまりは「プログラム」にとっての「源」といういことだ。
演劇や映画にとっての台本。
建築にとっての設計図。
音楽にとっての楽譜。
といったところか。
 

プログラマーは時々「美しいコード」という言葉を使う。

コードによって実行されたプログラムが表すものが「美しい」のではなくて、その源であるコードが「美しい」?
それは、そのコードが綺麗に行頭を揃えられて書かれている、というわけではない。

「美しいコード」とは、そのコードで表されたアルゴリズムがエレガントである、ということだ。

それは文学において「美しい文章」ということに似ているような気がする。
その字面が美しいと言っているわけではなく、そのコードあるいは文章によって編み出される形而上空間が何とも美しい、という意味だ。
なので、日本語がわからない人にはその文章の美しさは分からないし、コードが読めない人、あるいはそのコードの美しさに気づくレベルにないプログラマーにはそのコードの美しさに気づくことができない。

また反対に「汚いコード」という言い方もある。
見るからに煩雑で、そのコードを書いた人の頭の中がぐちゃぐちゃなのがよくわかる汚いコード。あるいはそのコードを書いた人のレベルが低く、もうすこしましに書けるはずのものなのに、と思わせるような。
これもまた文章についても同じことが言えるだろう。

ただ、コードと文章が大きく違う点は、文章は文法的な誤りがあっても許されるし、読む人が頑張ることでなんとかそこに書かれたことを理解しようとすることはできるものであるが、コードについてはそれを解釈するのがコンピューターであるので、文法的な誤りはたったのひとつも許されない。
つまり「汚いコード」というものは、汚いなりに文法的には一切誤りがない、というヘンテコなものなのだ。

プログラムを走らせた時に表示されるものを「美しい」だの「楽しい」だのというのではなく、その源である「コード」が美しい、汚い、というのは不思議なことかも知れない。

だが僕は誰かが創った作品(芸術作品に限らず)を鑑賞するときは、そのコードを読もうとしているのかもしれない。
だからこそ、「表現すること」に重きを置きすぎるために「表現されるもの」がないがしろになってしまっているものを残念に思うのだ。
 

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myinnerasia at 08:03│Comments(1)創ることについて 

この記事へのコメント

1. Posted by 岡﨑 心一   2017年08月08日 09:45
5 そんなあなたへ…
http://choreographlife.jp/pdf/intro.pdf

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