2016年08月26日
訳がわからないものに期待する、ということについて
これは僕の記憶にあるだけのことで、ソースを正確に言えないので発言者の名前は伏せておくことにする。
ある人が20年以上前に言ったこと。その人は人類学者、思想家、と一般に認識されている人。
「20年以上前」ということなので当然それは20世紀にあった発言なのだが、当時の僕はその言葉に衝撃を受けた。
その人が「20世紀末について」というエッセーに書いていたことだと思う。(このあたりが正確ではないので名前を伏せることになった)
当時の僕はこの「訳のわからないもの」というものについてまったく想像ができなかった。
ある人が20年以上前に言ったこと。その人は人類学者、思想家、と一般に認識されている人。
「20年以上前」ということなので当然それは20世紀にあった発言なのだが、当時の僕はその言葉に衝撃を受けた。
その人が「20世紀末について」というエッセーに書いていたことだと思う。(このあたりが正確ではないので名前を伏せることになった)
これから僕たちが迎える世紀末について。
世紀末には、今の僕たちがまったく理解できないような訳のわからないものが出てくると思う。
僕はその訳のわからないものに期待している。
当時の僕はこの「訳のわからないもの」というものについてまったく想像ができなかった。
「世紀末」というものは、その時代の人々にある種の不安を与えるものである。
その不安感のために、後に評価されることになる独特の美学が生まれることがある。
たとえば19世紀末のアールヌーヴォーといういびつな芸術傾向。
そして僕は、その人が言った「20世紀末に現れる訳がわからないもの」という言葉に囚われたまま、20世紀末を送ることになった。
僕がその言葉を聞いた後に実際に出会うことになった、「訳がわからないもの」についてはおいおい書いていくことにしようと思う。
科学というものは、あるいは思想、批評、というものは、訳がわからないものを訳がわかるようにするための作業である。
人はとにかく「訳がわからない」というものに対して恐怖を抱くようにできている。
なので訳がわからない状況にまで至るような天変地異や、訳がわからない都市伝説によって簡単にパニック状態に陥る。
そのような「訳がわからない」状態から少しでも逃れるための智慧が科学であり、思想であり、批評である。
そして「その訳ががわからないもの」をできるだけ排除しようとした努力の後に、それでもまだそこに残ることになった「訳のわからないもの」に「期待をしている」と言ってのけたのが、人類学者であり思想家であるその人が言った、ということが何とも衝撃的であった。
僕は「世紀末」というものにそれほど意味を持たせる必要はない、と考えている。
それは僕がクリスチャンではない、ということとはあまり関係ない。
それよりもむしろ10進数というものについて、人間の指がたまたま10本だったから、ということのほうがさらにナンセンスだと思っている。
"たまたま"10本だったという指の本数を二乗した100という数字の分だけ太陽の周りを地球が回った、ということを「世紀」という単位に定義したというだけの話。
その100週目に「訳がわからないこと」が起こる、というのは迷信でしかない。
あるいは集団催眠的なものなのかも知れない。
そして僕は、世紀末でも何でもない今現在において、「訳がわからないもの」が見え始めているような気分になっている。
具体的には「シンギュラリティ」と言われているもののことだ。
「シンギュラリティ」というバズワードめいたこの言葉について、それを「分かっている」という人のことを僕は信用しない。
シンギュラリティとは、訳がわからないもののはずである。
あるいは訳がわかってしまえばそれは「シンギュラリティ」と呼ぶべきものではなくなってしまう。
今現在の僕たちには訳がわからないもの。
それをとりあえず「シンギュラリティ」と名づけているだけのような気がする。
その不安感のために、後に評価されることになる独特の美学が生まれることがある。
たとえば19世紀末のアールヌーヴォーといういびつな芸術傾向。
そして僕は、その人が言った「20世紀末に現れる訳がわからないもの」という言葉に囚われたまま、20世紀末を送ることになった。
僕がその言葉を聞いた後に実際に出会うことになった、「訳がわからないもの」についてはおいおい書いていくことにしようと思う。
科学というものは、あるいは思想、批評、というものは、訳がわからないものを訳がわかるようにするための作業である。
人はとにかく「訳がわからない」というものに対して恐怖を抱くようにできている。
なので訳がわからない状況にまで至るような天変地異や、訳がわからない都市伝説によって簡単にパニック状態に陥る。
そのような「訳がわからない」状態から少しでも逃れるための智慧が科学であり、思想であり、批評である。
そして「その訳ががわからないもの」をできるだけ排除しようとした努力の後に、それでもまだそこに残ることになった「訳のわからないもの」に「期待をしている」と言ってのけたのが、人類学者であり思想家であるその人が言った、ということが何とも衝撃的であった。
僕は「世紀末」というものにそれほど意味を持たせる必要はない、と考えている。
それは僕がクリスチャンではない、ということとはあまり関係ない。
それよりもむしろ10進数というものについて、人間の指がたまたま10本だったから、ということのほうがさらにナンセンスだと思っている。
"たまたま"10本だったという指の本数を二乗した100という数字の分だけ太陽の周りを地球が回った、ということを「世紀」という単位に定義したというだけの話。
その100週目に「訳がわからないこと」が起こる、というのは迷信でしかない。
あるいは集団催眠的なものなのかも知れない。
そして僕は、世紀末でも何でもない今現在において、「訳がわからないもの」が見え始めているような気分になっている。
具体的には「シンギュラリティ」と言われているもののことだ。
「シンギュラリティ」というバズワードめいたこの言葉について、それを「分かっている」という人のことを僕は信用しない。
シンギュラリティとは、訳がわからないもののはずである。
あるいは訳がわかってしまえばそれは「シンギュラリティ」と呼ぶべきものではなくなってしまう。
今現在の僕たちには訳がわからないもの。
それをとりあえず「シンギュラリティ」と名づけているだけのような気がする。
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