天動説宣言風バズワードとの正しいつきあい方

2016年09月06日

Lost In Translation

ソフィア・コッポラの"Lost In Translation"は、あらゆる意味で日本的なものを描いた映画である。

まず、舞台が東京であるということ。
これは日本を訪れる外国人の目から見た東京で、東京に住む僕たちからしたら「外国人にはそういうふうに見えるのか」と、逆に新鮮であったりする。
だがそれよりも、僕がこの映画が日本的なものを描いている、と思えるのは、映画全体に漂う何とも言えない「切なさ」である。
 


この映画は、「フランシス・コッポラの娘が監督」ということもあり、当時アメリカ人と話すと必ず話題にあがることが多かった。それは、僕が日本人だからこの映画の話をした、というのもあるのだろうが、皆が言っていたことは、「この映画を見て日本のイメージが変わった」ということである。

いつの間にか、日本のイメージは「フジヤマ、ゲイシャ」から「アニメ、アキハバラ」に変わっている。
日本人はそのことに敏感で、日本をアピールする点をかつてのフジヤマ、ゲイシャからアニメへとシフトしたことは、リオ・オリンピックの閉会式で「次は東京2020」というショーを見ても明らかである。

だが僕にとってのリアルな日本とは、Lost In Translationで描かれている東京で、この映画をきっかけに海外の人々の日本観が変わり始めたのではないだろうか、と思っている。

この映画のあらすじは、「ハリウッド・スターが日本に来て、同じく日本に来ていた女性と恋をする」という、書いてみれば何ともありふれた素っ気ないものになるが、実際、素っ気ない映画である。
タイトルにあるように、主人公は日本でのやりとりに通訳を使うのであるが、その通訳を通すことで色々なことが抜け落ちる、ということを経験する。もっとたくさんしゃべったはずなのに、それが日本語になると明らかに短い。ちゃんと伝わっているのか?という疑問を抱く。
そもそも言葉で何かを伝えようとしても、色々なことが抜け落ちる、それは恋愛も同じく、ということをテーマにしている。

西洋人、とりわけアメリカ人は「言葉の文化」で、僕たち日本人から見たら信じられないほど何もかもを言葉で表現することが迫られる。日本人が「そこまで言わなくても通じるだろう」と思うようなことでも、それをわざわざ言葉で伝えないことには、後になって「そんなこと聞いていない」となってモメる。
これは異文化が交じり合う多民族国家であることが理由なのだろう。まったく違う価値観を持った民族どうしが隣り合う世界では、不文律は共有できないので、言葉で何もかもを伝える、ということが必須である。

だが通訳を必要としない共通の母国語どうしの会話であっても抜け落ちるものがある、ということをこの映画は描いている。

言葉を使っても抜け落ちるものがある、ということ。
これは、「以心伝心」や「空気を読む」ということを普通にやっている僕たち日本人にとっては当然のことであるが、そのことをこの映画は見事に描いている。と、いう意味で僕はこの映画は「日本的なものを描いた映画」であると思う。
そして、この映画を恋愛映画として観るならば、なんとも切ないそのストーリーもまた日本的である。その「切なさ」というものも、言葉では表現しづらい感覚で、その表現しづらさも含めた日本的な感覚をうまく描いている。

この世界を言葉で表そうとする「科学」というものは、やはりその「言葉」を使ってもなお抜け落ちるものがある。
それを「オカルト」として扱うのか、あるいは世界そのものをカオスとし、それを何とか言葉で表現しているんだからぬけおちるものもあるだろう、という割り切りをするのか。

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myinnerasia at 08:02│Comments(0)メタロジック 

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