アジア
2016年07月14日
「創発」という言葉は、なんだか普通に使われている言葉のような気もするが、聞いたこともない気がする。
どうでもいいような話、たとえば何かの開会式での偉い人の挨拶とかで、使われていたような気もする。
「これからは、全社一丸となって創発していきましょう!おーーーーっ!」
。。。いや、やっぱり聞いたことないか。。。
より単純な仕組みでできた「部分」から成る「全体」は、それを構成する「部分」の総和を超えることがある。
これを「創発」という。
このブログでこれまで取りあげた、フラクタル幾何学、発酵、ニューラルネットワーク、人工生命はいずれも創発という側面が基本となっている。
ある形を構成するそれぞれの部分がその全体の形になっている、ということを再帰的に繰り返すことで有機的な形になっていく(フラクタル幾何学)、数種類の単細胞生物(菌類)がせめぎあって生態系を作る(発酵)、入力と出力を持つ単純なニューロンを何層かにつなぎ合わせることで脳が行っている処理に近い処理ができるようになる(ニューラルネットワーク)、交配を繰り返すことによって環境に適合した種に進化していく(人工生命)。
より単純な部分の集合が、全体としてより有機的なシステムを構成するようになる。
これはプログラミングにおける低級言語と高級言語の関係と一見似ているようではあるが、本質的に全く異なるものである。
より低水準なことを抽象化することで全体を作り上げる。
たとえば、、、
何か買い物をするときのお金の払い方についてを考えてみる。
「お金を払う」という行為をもうすこし細かく言うと「財布から品物の代金を取り出して払う」となる。
さらに細かく考えると、それは店員に払うのか、自動販売機にお金を入れるのか、カードで払うのかもしれない。
あるいは品物の金額分ちょうどのお金がなかったので、お釣りをもらうなど、「お金を払う」という言葉を細かく言い始めるときりがない。
更にお札なり硬貨なりを払う時の行為を物理的に考えると、お札を取り出して渡す場合と硬貨を渡す場合では、そこでの手の動きや力の使い方が変わってきて、、、
、、、などというようなことは「お金を払う」ということを考える時に一切考えないはずである。
つまり、「お金を払う」という高水準の言葉は、より低水準な行為から成っていると言える。
言い換えると、お金を払う際の「硬貨をつまんでレジの皿の上に置く」という低級言語で書くことができるような単純な行為が集まって、「お金を払う」という高級言語で書かれる行為を形成する、ということである。
この低水準と高水準の関係は、創発における部分と全体と同じように見えるかもしれないが、創発の最も重要な「全体が部分の総和を超える」ということが起こっているとは考えられない、という点で創発と呼べるものではない。
つまり「硬貨をつまんで」「皿の上に置いて」「お釣りをもらって」という細かい動作の総和が「お金を払う」という行為になっているだけのことで、そこにそれ以上のものごとは起こっていない。
言い換えると、「お金を払う」という行為は、「硬貨をつまむ」などの最小単位の行為に「還元」できる、ということである。
これに対し、たとえばニューラルネットについて、それを構成している個々のニューロンは確かに入力に対して出力を返す、という単純な行為をしているだけであるが、それが層となって無数につなぎ合わされることによって、人間の直感的な問題を処理する、といったように、部分の総和以上のものになっている。
これは、「直感的な問題を処理できる」という全体から、それぞれのニューロンの動きに還元することができない。
そのため、しばしば「オカルト」と言われることもあった。
還元主義に基づいた分析を「科学」とする間違った態度は、「創発」については還元的に説明することが不可能であるため、それをオカルトとしなければならない事情があった。
今では「創発」は普通に科学として取り扱われるようになっている。
なので、自然界のあらゆるところに「創発」というべき事象があふれている以上、創発をも対象に入れて考えることこそが科学である、などということを今さらいう必要もないのであるが。
どうでもいいような話、たとえば何かの開会式での偉い人の挨拶とかで、使われていたような気もする。
「これからは、全社一丸となって創発していきましょう!おーーーーっ!」
。。。いや、やっぱり聞いたことないか。。。
より単純な仕組みでできた「部分」から成る「全体」は、それを構成する「部分」の総和を超えることがある。
これを「創発」という。
このブログでこれまで取りあげた、フラクタル幾何学、発酵、ニューラルネットワーク、人工生命はいずれも創発という側面が基本となっている。
ある形を構成するそれぞれの部分がその全体の形になっている、ということを再帰的に繰り返すことで有機的な形になっていく(フラクタル幾何学)、数種類の単細胞生物(菌類)がせめぎあって生態系を作る(発酵)、入力と出力を持つ単純なニューロンを何層かにつなぎ合わせることで脳が行っている処理に近い処理ができるようになる(ニューラルネットワーク)、交配を繰り返すことによって環境に適合した種に進化していく(人工生命)。
より単純な部分の集合が、全体としてより有機的なシステムを構成するようになる。
これはプログラミングにおける低級言語と高級言語の関係と一見似ているようではあるが、本質的に全く異なるものである。
より低水準なことを抽象化することで全体を作り上げる。
たとえば、、、
何か買い物をするときのお金の払い方についてを考えてみる。
「お金を払う」という行為をもうすこし細かく言うと「財布から品物の代金を取り出して払う」となる。
さらに細かく考えると、それは店員に払うのか、自動販売機にお金を入れるのか、カードで払うのかもしれない。
あるいは品物の金額分ちょうどのお金がなかったので、お釣りをもらうなど、「お金を払う」という言葉を細かく言い始めるときりがない。
更にお札なり硬貨なりを払う時の行為を物理的に考えると、お札を取り出して渡す場合と硬貨を渡す場合では、そこでの手の動きや力の使い方が変わってきて、、、
、、、などというようなことは「お金を払う」ということを考える時に一切考えないはずである。
つまり、「お金を払う」という高水準の言葉は、より低水準な行為から成っていると言える。
言い換えると、お金を払う際の「硬貨をつまんでレジの皿の上に置く」という低級言語で書くことができるような単純な行為が集まって、「お金を払う」という高級言語で書かれる行為を形成する、ということである。
この低水準と高水準の関係は、創発における部分と全体と同じように見えるかもしれないが、創発の最も重要な「全体が部分の総和を超える」ということが起こっているとは考えられない、という点で創発と呼べるものではない。
つまり「硬貨をつまんで」「皿の上に置いて」「お釣りをもらって」という細かい動作の総和が「お金を払う」という行為になっているだけのことで、そこにそれ以上のものごとは起こっていない。
言い換えると、「お金を払う」という行為は、「硬貨をつまむ」などの最小単位の行為に「還元」できる、ということである。
これに対し、たとえばニューラルネットについて、それを構成している個々のニューロンは確かに入力に対して出力を返す、という単純な行為をしているだけであるが、それが層となって無数につなぎ合わされることによって、人間の直感的な問題を処理する、といったように、部分の総和以上のものになっている。
これは、「直感的な問題を処理できる」という全体から、それぞれのニューロンの動きに還元することができない。
そのため、しばしば「オカルト」と言われることもあった。
還元主義に基づいた分析を「科学」とする間違った態度は、「創発」については還元的に説明することが不可能であるため、それをオカルトとしなければならない事情があった。
今では「創発」は普通に科学として取り扱われるようになっている。
なので、自然界のあらゆるところに「創発」というべき事象があふれている以上、創発をも対象に入れて考えることこそが科学である、などということを今さらいう必要もないのであるが。
myinnerasia at 08:04|Permalink│Comments(0)
2016年06月28日
有名な心理学実験に「逆さメガネ実験」というものがある。
上下左右が反転するメガネを被験者にかけさせ、それで数日間をすごさせる、という実験。
最初、被験者は当然のことながら要領が掴めず、ちょっと体を移動させるだけでも、反対側に歩き始めたり、あちこちに体をぶつけたりするのだが、数日後には完璧に身をこなすことができるようになり、普通に生活できるようになる、という。
この実験が面白いのは、数日後、その逆さメガネを外した後のことである。
本来、すべてのものが上下左右反転する、「ハンディキャップ」であったはずの逆さメガネから開放されてしばらくは、最初に逆さメガネをかけた時と同じように、反対側に歩き出したり、あちこちに体をぶつけたりする、ということだ。
元々の身体にそなわっているレンズ(水晶体)は網膜に上下左右の像を映していて、我々はそれの逆さまに映った像を脳で処理して普通に生活するように学習している。
それを逆さメガネを通すことによって上下左右を正しく脳に送るようにするとどうなるか、というのがこの実験だったわけだが、それまで学習してきたことと逆の条件を渡されても、脳はそれに適応できるように再学習する、ということだ。
これは、自動車の運転に似ている。
自動車の運転は、ハンドルを握ってそれを回転させる、という単純な動作で車の方向を変えものであるが、車を運転している人の手元を見てみると、直進中であっても、微妙に左右にハンドルを微調整しているのがわかる。
これはおそらく運転している本人は無意識で、ただ「直進する」という目的を満たすためにしていることである。
つまり、車を運転している者にとってのハンドルは、身体の延長であり、器官として拡張されたものである。
車を運転している者にとってハンドルという人工のものが器官として拡張される、という機能は、先天的に人間に備わっている能力ではない。いわばこれも逆さメガネと同様に、後づけで与えられたハンディキャップに体が適応した結果獲得した能力である。
僕はゲームを作るくせに実はあまりゲームはしない。
プレステなどのゲーム機は持っていない。
だが例外的に幼少期からずっとやっているゲームがある。ピンボールだ。
ピンボールは、左右にあるフリッパーが唯一のコントロールできるものであるが(ウソ、本当は「台を揺らす」というテクニックもある)、ピンボールを初めてする者はこのフリッパーの操作に慣れるまで、そうとう扱いづらいようで、すぐにゲームが終わってしまう。
ところが僕も含めたピンボールの上級者は、まるで自分の体の一部であるかのようにフリッパーを扱うことができる。
ピンボールの球をフリッパーで打つ瞬間に、その球がどちらの方向に向かってどこに当たるかが見えるし、どこに当てたいかというのをちゃんと打ち分けることができる。
これはイチローにとってのバットと同じだろう。
たとえばこのピンボールのフリッパーが別の動きをするもの、たとえばブロック崩しのパッドのようなものに変わったとすれば、おそらく最初はその操作に戸惑うかも知れないが、すぐにそれに適応して、フリッパーを扱うのと同様に使いこなせるようになるのではないか、と思う。
これも逆さメガネと同じく、脳が後天的な条件に適応する能力によるものである。
上下左右が反転するメガネを被験者にかけさせ、それで数日間をすごさせる、という実験。
最初、被験者は当然のことながら要領が掴めず、ちょっと体を移動させるだけでも、反対側に歩き始めたり、あちこちに体をぶつけたりするのだが、数日後には完璧に身をこなすことができるようになり、普通に生活できるようになる、という。
この実験が面白いのは、数日後、その逆さメガネを外した後のことである。
本来、すべてのものが上下左右反転する、「ハンディキャップ」であったはずの逆さメガネから開放されてしばらくは、最初に逆さメガネをかけた時と同じように、反対側に歩き出したり、あちこちに体をぶつけたりする、ということだ。
元々の身体にそなわっているレンズ(水晶体)は網膜に上下左右の像を映していて、我々はそれの逆さまに映った像を脳で処理して普通に生活するように学習している。
それを逆さメガネを通すことによって上下左右を正しく脳に送るようにするとどうなるか、というのがこの実験だったわけだが、それまで学習してきたことと逆の条件を渡されても、脳はそれに適応できるように再学習する、ということだ。
これは、自動車の運転に似ている。
自動車の運転は、ハンドルを握ってそれを回転させる、という単純な動作で車の方向を変えものであるが、車を運転している人の手元を見てみると、直進中であっても、微妙に左右にハンドルを微調整しているのがわかる。
これはおそらく運転している本人は無意識で、ただ「直進する」という目的を満たすためにしていることである。
つまり、車を運転している者にとってのハンドルは、身体の延長であり、器官として拡張されたものである。
車を運転している者にとってハンドルという人工のものが器官として拡張される、という機能は、先天的に人間に備わっている能力ではない。いわばこれも逆さメガネと同様に、後づけで与えられたハンディキャップに体が適応した結果獲得した能力である。
僕はゲームを作るくせに実はあまりゲームはしない。
プレステなどのゲーム機は持っていない。
だが例外的に幼少期からずっとやっているゲームがある。ピンボールだ。
ピンボールは、左右にあるフリッパーが唯一のコントロールできるものであるが(ウソ、本当は「台を揺らす」というテクニックもある)、ピンボールを初めてする者はこのフリッパーの操作に慣れるまで、そうとう扱いづらいようで、すぐにゲームが終わってしまう。
ところが僕も含めたピンボールの上級者は、まるで自分の体の一部であるかのようにフリッパーを扱うことができる。
ピンボールの球をフリッパーで打つ瞬間に、その球がどちらの方向に向かってどこに当たるかが見えるし、どこに当てたいかというのをちゃんと打ち分けることができる。
これはイチローにとってのバットと同じだろう。
たとえばこのピンボールのフリッパーが別の動きをするもの、たとえばブロック崩しのパッドのようなものに変わったとすれば、おそらく最初はその操作に戸惑うかも知れないが、すぐにそれに適応して、フリッパーを扱うのと同様に使いこなせるようになるのではないか、と思う。
これも逆さメガネと同じく、脳が後天的な条件に適応する能力によるものである。
myinnerasia at 08:05|Permalink
2016年06月27日
インターネット上で日本独自に発展したガラパゴスを代表するものは何と言っても2ちゃんねるである。
インターネット創世期より、掲示板というものがあり、さらにはそれ以前のパソコン通信という閉じられた世界や、もうすこしアカデミー寄りになるネットニュース(fjなど)でも掲示板で熱い議論が昼夜問わず繰り広げられていたが、それは2ちゃんねるで爆発することになった。
2ちゃんねるは、まず「社会」や「文化」、「家電製品」、「食文化」などの大カテゴリがあり、その下に「板」と呼ばれる分類がある。ここまでは2ちゃんねるを運営している側が設定するものであるが、その各板に、ユーザーが自由に「スレッド」と呼ばれる話題の場を作ることができる。
ひとつのスレッドは、発言ひとつずつに番号が振られ、それが1000に達したらそのスレッドはもうそれ以上書き込めなくなる。
以上のしくみにより2チャンネルは、UGCとして、圧倒的な量のコンテンツと、管理側のコントロールを超えた発展を遂げることになる。
2ちゃんねるが日本独自のガラパゴスとして発展し、そこでさまざまな「事件」が起こることになったのは、この「板までは運営の管理下にあるが、スレッドは誰もが自由に作ることができる」というある程度管理された自由という点と、もうひとつは「匿名性」にある。
発言時に名前を名乗ることはできるのであるが、基本的に「名無し」のままにしておくという不文律があり、そこにわざわざ名前を書くことは「コテハン(固定ハンドルネームの略)」と言って、そのスレッドでよほどの発言権を持つものか、以前の発言との一貫性を持たせるためにすることが多い。基本的には名無し、つまり匿名である。
よく、「便所の落書き」と揶揄される通り、2ちゃんねるの書き込みはその匿名性のために発言に責任を持つ必要がなく、しばしば便所の落書きのような下品で無責任なものが現れることがある。
だが、その匿名性故に、なかなか手に入れられない生の情報が手に入ることもある。
この「ある程度管理された自由」と「匿名性」という2点の特徴が原因で、2ちゃんねるはさまざまな「事件」を起こすことになる。
まず思い出すのは、2ちゃんねるでしばしば殺人予告めいたものが書き込まれ、逮捕者が出るほどの大騒ぎになることや、2ちゃんねるで知り合った者どうしで犯罪や集団自殺をする、などといったものである。
世間を騒がせる「事件」以外にも、2ちゃんねるで使われる、いわゆる「2ちゃん用語」というものも大きな意味では「事件」である。
「空気読め」ということばをわざと「空気嫁」と誤変換したり、「既出」を「ガイシュツ」と誤読をすることで新しい言葉が生まれそれが2ちゃんねるでのスラングとなる。
あるいは「ぬるぽ」と誰かが書き込めば「ガッ」と返す、という変なルールがある。
これはプログラマーしか知らないはずなのだが、ヌルポインターという言葉を略して「ヌルポ」というプログラミング用語がある。
その昔、翻訳サイトだか何かで、なぜか「ぬるぽ」と打つと「ガッ」と翻訳されるというバグがあり、それが始まりで、誰かが「ぬるぽ」と書くと「ガッ」と書く、という不文律が生まれ、今も続いている。
以上のような、現実世界までを巻き込む事件もあれば、2ちゃんねるという閉じられた世界だけで独自の文化のようなものが生まれた、というものまでを含め、そこは既にアジアである。
インターネット創世期より、掲示板というものがあり、さらにはそれ以前のパソコン通信という閉じられた世界や、もうすこしアカデミー寄りになるネットニュース(fjなど)でも掲示板で熱い議論が昼夜問わず繰り広げられていたが、それは2ちゃんねるで爆発することになった。
2ちゃんねるは、まず「社会」や「文化」、「家電製品」、「食文化」などの大カテゴリがあり、その下に「板」と呼ばれる分類がある。ここまでは2ちゃんねるを運営している側が設定するものであるが、その各板に、ユーザーが自由に「スレッド」と呼ばれる話題の場を作ることができる。
ひとつのスレッドは、発言ひとつずつに番号が振られ、それが1000に達したらそのスレッドはもうそれ以上書き込めなくなる。
以上のしくみにより2チャンネルは、UGCとして、圧倒的な量のコンテンツと、管理側のコントロールを超えた発展を遂げることになる。
2ちゃんねるが日本独自のガラパゴスとして発展し、そこでさまざまな「事件」が起こることになったのは、この「板までは運営の管理下にあるが、スレッドは誰もが自由に作ることができる」というある程度管理された自由という点と、もうひとつは「匿名性」にある。
発言時に名前を名乗ることはできるのであるが、基本的に「名無し」のままにしておくという不文律があり、そこにわざわざ名前を書くことは「コテハン(固定ハンドルネームの略)」と言って、そのスレッドでよほどの発言権を持つものか、以前の発言との一貫性を持たせるためにすることが多い。基本的には名無し、つまり匿名である。
よく、「便所の落書き」と揶揄される通り、2ちゃんねるの書き込みはその匿名性のために発言に責任を持つ必要がなく、しばしば便所の落書きのような下品で無責任なものが現れることがある。
だが、その匿名性故に、なかなか手に入れられない生の情報が手に入ることもある。
この「ある程度管理された自由」と「匿名性」という2点の特徴が原因で、2ちゃんねるはさまざまな「事件」を起こすことになる。
まず思い出すのは、2ちゃんねるでしばしば殺人予告めいたものが書き込まれ、逮捕者が出るほどの大騒ぎになることや、2ちゃんねるで知り合った者どうしで犯罪や集団自殺をする、などといったものである。
世間を騒がせる「事件」以外にも、2ちゃんねるで使われる、いわゆる「2ちゃん用語」というものも大きな意味では「事件」である。
「空気読め」ということばをわざと「空気嫁」と誤変換したり、「既出」を「ガイシュツ」と誤読をすることで新しい言葉が生まれそれが2ちゃんねるでのスラングとなる。
あるいは「ぬるぽ」と誰かが書き込めば「ガッ」と返す、という変なルールがある。
これはプログラマーしか知らないはずなのだが、ヌルポインターという言葉を略して「ヌルポ」というプログラミング用語がある。
その昔、翻訳サイトだか何かで、なぜか「ぬるぽ」と打つと「ガッ」と翻訳されるというバグがあり、それが始まりで、誰かが「ぬるぽ」と書くと「ガッ」と書く、という不文律が生まれ、今も続いている。
以上のような、現実世界までを巻き込む事件もあれば、2ちゃんねるという閉じられた世界だけで独自の文化のようなものが生まれた、というものまでを含め、そこは既にアジアである。
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2016年06月25日
今ではすっかり普通に使われるようになった「ガラケー」という言葉を「ガラクタケータイ」の略だと思っている人が5%(オレ統計)。
本来の「ガラパゴスケータイ」というときの「ガラパゴス」も、日本人が自らの文化を自虐的に言うとき使われることが多い。要するに「ガラケー」は今や見下される存在に成り下がってしまった。
スマホを使うようになったからといって、それ以前の古いガラケーを「ガラクタ」や「ガラパゴス」と言って見下す、という態度そのものもがこの島国独自の感覚であり、要するにガラパゴスだと思うのだが、そもそも日本の文化がガラパゴスだということの何が悪いのか?
ガラケーで使われているOSは、確かに日本独自に発展したものであり、そこで使われるブラウザも日本で生まれたものである。日本人が求める機能を盛り込むことで、海外の携帯電話よりも何歩も先を行くものに発展していった。
そこにスマホが現れたために、あっさりと陳腐化してしまったのは否めない。
だがそれは機能的に陳腐化した、ということであって、本来の意味での「ガラパゴス」ということとは関係がない。
「ガラパゴス」の反対語は「グローバル」である。
要するに「世界標準」。
日本独自に発展した、日本国内だけの標準に沿って設計された携帯電話を使うことよりも、世界標準で設計されたグローバルなスマホに乗り換えるということ。それのどこが偉いの?なぜガラケーを見下すのか?
グローバリズムとは要するに「撹拌」である。
ぬか漬けを毎日かき混ぜるのと同じで、局所的に発展しているコロニーを全体にブレンドして希薄化すること。
それまで局所的に発展したコロニー、つまりガラパゴスを全体に希薄化することで画一化すること。
世界中のどこに言ってもマクドナルドやスタバがあるように。
これは世界規模のファースト風土化である。
ここでぬか漬けの例で考えてみると、かき混ぜられることで局所的なコロニーが全体に希薄化されたとしても、そのぬか漬けが入った容器は、外部の環境からは隔離されている。つまり、ぬか漬けが入った容器は閉じられたシステムである、と言える。これを僕は「ぬか漬けの中の小アジア」と言った。
その閉じられた容器の中で、外部の環境からはかけ離れた独自の生態系が生まれている。
それは「ケフィアの中の小アジア」も、「睡蓮鉢の中の小アジア」も同じ。
そして、ガラパゴス化した社会というものも同じく、閉じられた世界で独自の生態系が生まれている、という意味で、アジアなのである。
ガラパゴス諸島であっても、あるいはヨーロッパやアフリカのどこかの小さな町で閉じられた独自の世界が生まれているというのであれば、それはアジアなのである。
本来の「ガラパゴスケータイ」というときの「ガラパゴス」も、日本人が自らの文化を自虐的に言うとき使われることが多い。要するに「ガラケー」は今や見下される存在に成り下がってしまった。
スマホを使うようになったからといって、それ以前の古いガラケーを「ガラクタ」や「ガラパゴス」と言って見下す、という態度そのものもがこの島国独自の感覚であり、要するにガラパゴスだと思うのだが、そもそも日本の文化がガラパゴスだということの何が悪いのか?
ガラケーで使われているOSは、確かに日本独自に発展したものであり、そこで使われるブラウザも日本で生まれたものである。日本人が求める機能を盛り込むことで、海外の携帯電話よりも何歩も先を行くものに発展していった。
そこにスマホが現れたために、あっさりと陳腐化してしまったのは否めない。
だがそれは機能的に陳腐化した、ということであって、本来の意味での「ガラパゴス」ということとは関係がない。
「ガラパゴス」の反対語は「グローバル」である。
要するに「世界標準」。
日本独自に発展した、日本国内だけの標準に沿って設計された携帯電話を使うことよりも、世界標準で設計されたグローバルなスマホに乗り換えるということ。それのどこが偉いの?なぜガラケーを見下すのか?
グローバリズムとは要するに「撹拌」である。
ぬか漬けを毎日かき混ぜるのと同じで、局所的に発展しているコロニーを全体にブレンドして希薄化すること。
それまで局所的に発展したコロニー、つまりガラパゴスを全体に希薄化することで画一化すること。
世界中のどこに言ってもマクドナルドやスタバがあるように。
これは世界規模のファースト風土化である。
ここでぬか漬けの例で考えてみると、かき混ぜられることで局所的なコロニーが全体に希薄化されたとしても、そのぬか漬けが入った容器は、外部の環境からは隔離されている。つまり、ぬか漬けが入った容器は閉じられたシステムである、と言える。これを僕は「ぬか漬けの中の小アジア」と言った。
その閉じられた容器の中で、外部の環境からはかけ離れた独自の生態系が生まれている。
それは「ケフィアの中の小アジア」も、「睡蓮鉢の中の小アジア」も同じ。
そして、ガラパゴス化した社会というものも同じく、閉じられた世界で独自の生態系が生まれている、という意味で、アジアなのである。
ガラパゴス諸島であっても、あるいはヨーロッパやアフリカのどこかの小さな町で閉じられた独自の世界が生まれているというのであれば、それはアジアなのである。
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2016年06月24日
UGC(User Generated Content:ユーザが生成するコンテンツ)というバズワードが聞かれなくなるまでにはあまり時間がかからなかった。UGCという言葉がバズる前からそういうものはあったし、今現在でも、インターネット上で最も元気があるのはUGCだ。
UGCとは、その言葉そのままに、ユーザーが作ったコンテンツを集めた場、という意味で、それはその場を提供する者が自らコンテンツを作る、あるいは制作者が創ったものを配給する、という従来のコンテツビジネスと分けて考えるために用いられる。
YouTube、 Instagram、その他広い意味ではFacebook、TwitterなどのSNSもUGCの範疇に入れて考えてもいいものかも知れない。
にもかかわらず、そこで"UGC"という言葉が使われることはあまりない。
本来、「ユーザが生成するコンテンツを集めて提供する場」というものは破壊的な力を持つ。
場の提供者、あるいは場の提供者が用意した制作者には数に限りがあるため、そのコンテンツの数も当然のことながら有限となる。
それに対しUGCと呼ばれるサービスは、そこを訪れる客にコンテンツを公開する場を提供することで、コンテンツの数を無限にすることができるのだ。
量は質を凌駕する。
量だけで勝負することになるのであれば、大竹伸朗であっても、プリンスであっても、池田学であっても、UGCの人海戦術の無限性にはかなわない。
コンテンツを公開する場を提供する者にとって、ある程度はコントロール可能であるだろうが、基本的にUGCは自然発生都市的、すなわちアジア的なものになり、やがてコントロール不可能なものになっていくことが目に見えている。
やがてUGCは量的にも質的にも爆発していくことになる。
つまりUGCは本質的に無敵であり、それをバズワードとしてしか考えられなかった者たちは、その本質に気づくことなく、やがて「当然のこと」のようになってしまった。
制作機械(大竹伸朗、プリンス、池田学)であってもその数においては歯が立たないUGCに対抗するとすれば、それはCGC(Computer Generated Content:コンピューターで生成するコンテント)だ。
CGCという言葉は調べても見つからないかも知れない。なぜなら今僕が作ったからだ。
コンピュータは文句をいっさい言うことなく、複雑で膨大な計算を人間よりもはるかに高速に繰り返してくれる。
この我慢強さは制作機械にも勝るし、CGCに負けないほどの無限性を持ちうるものである。
「文句をいっさい言うことなく、計算を繰り返してくれること」を、作品の生成に応用することで、コンピューターを「人工制作機械」にすることができる、というのが僕がずっとテーマにしていることだ。
そして、そこで創りだされる無限を感じさせるコンテンツこそが、僕がアジアと呼ぶものに他ならない。
UGCとは、その言葉そのままに、ユーザーが作ったコンテンツを集めた場、という意味で、それはその場を提供する者が自らコンテンツを作る、あるいは制作者が創ったものを配給する、という従来のコンテツビジネスと分けて考えるために用いられる。
YouTube、 Instagram、その他広い意味ではFacebook、TwitterなどのSNSもUGCの範疇に入れて考えてもいいものかも知れない。
にもかかわらず、そこで"UGC"という言葉が使われることはあまりない。
本来、「ユーザが生成するコンテンツを集めて提供する場」というものは破壊的な力を持つ。
場の提供者、あるいは場の提供者が用意した制作者には数に限りがあるため、そのコンテンツの数も当然のことながら有限となる。
それに対しUGCと呼ばれるサービスは、そこを訪れる客にコンテンツを公開する場を提供することで、コンテンツの数を無限にすることができるのだ。
量は質を凌駕する。
量だけで勝負することになるのであれば、大竹伸朗であっても、プリンスであっても、池田学であっても、UGCの人海戦術の無限性にはかなわない。
コンテンツを公開する場を提供する者にとって、ある程度はコントロール可能であるだろうが、基本的にUGCは自然発生都市的、すなわちアジア的なものになり、やがてコントロール不可能なものになっていくことが目に見えている。
やがてUGCは量的にも質的にも爆発していくことになる。
つまりUGCは本質的に無敵であり、それをバズワードとしてしか考えられなかった者たちは、その本質に気づくことなく、やがて「当然のこと」のようになってしまった。
制作機械(大竹伸朗、プリンス、池田学)であってもその数においては歯が立たないUGCに対抗するとすれば、それはCGC(Computer Generated Content:コンピューターで生成するコンテント)だ。
CGCという言葉は調べても見つからないかも知れない。なぜなら今僕が作ったからだ。
コンピュータは文句をいっさい言うことなく、複雑で膨大な計算を人間よりもはるかに高速に繰り返してくれる。
この我慢強さは制作機械にも勝るし、CGCに負けないほどの無限性を持ちうるものである。
「文句をいっさい言うことなく、計算を繰り返してくれること」を、作品の生成に応用することで、コンピューターを「人工制作機械」にすることができる、というのが僕がずっとテーマにしていることだ。
そして、そこで創りだされる無限を感じさせるコンテンツこそが、僕がアジアと呼ぶものに他ならない。
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