コンピューター科学
2016年08月17日
第二回AI美芸研を傍観していて、僕はずっと気になっていることがあることに気づいた。
「人工知能美学芸術研究会」および「人工知能美学芸術宣言」という名前について、中ザワヒデキが考えていることは、もしかすると「人工知能」ではなくてもいいのではないだろうか、ということである。
Dの領域、つまり「機械が行う美学-に照らして-機械が行う芸術」を実現するために「知能」は必要なのだろうか?
そもそも、「AI美学芸術」という言葉は同義反復である。
英語にすると、「美学」はaestheticであり、芸術はartということになるのであろうが、「人工」を表すartificialという言葉はartと語源が同じものの変化形のようなものだ。
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「人工知能美学芸術研究会」および「人工知能美学芸術宣言」という名前について、中ザワヒデキが考えていることは、もしかすると「人工知能」ではなくてもいいのではないだろうか、ということである。
Dの領域、つまり「機械が行う美学-に照らして-機械が行う芸術」を実現するために「知能」は必要なのだろうか?
そもそも、「AI美学芸術」という言葉は同義反復である。
英語にすると、「美学」はaestheticであり、芸術はartということになるのであろうが、「人工」を表すartificialという言葉はartと語源が同じものの変化形のようなものだ。
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myinnerasia at 08:04|Permalink│Comments(0)
2016年08月16日
前回のAI美芸研に続いて、8月6日に行われた第2回AI美芸研にも参加してきた。
今回は松田卓也先生を招いて、「迫り来るシンギュラリティ」という講演がメインであった。
前回に引き続き、野次馬以上恋人未満という立場でのぞきに行ったのだが、正直なところ僕はシンギュラリティそのものについてはそれほど興味がなく、むしろ中ザワヒデキが松田先生を招いてシンギュラリティの話をしてもらう、ということそのものに興味があった。
前回も書いた通り、中ザワは「人工知能美学宣言」を自らの芸術的パフォーマンスとして行っており、そこから派生するさまざまな出来事を期待しているように見える。
第2回AI美芸研は松田先生の講演がメインと見えるが、その前に前座的に行われた中ザワ自身による「AI美芸研のアジェンダ」こそ意義のあるものだった。
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今回は松田卓也先生を招いて、「迫り来るシンギュラリティ」という講演がメインであった。
前回に引き続き、野次馬以上恋人未満という立場でのぞきに行ったのだが、正直なところ僕はシンギュラリティそのものについてはそれほど興味がなく、むしろ中ザワヒデキが松田先生を招いてシンギュラリティの話をしてもらう、ということそのものに興味があった。
前回も書いた通り、中ザワは「人工知能美学宣言」を自らの芸術的パフォーマンスとして行っており、そこから派生するさまざまな出来事を期待しているように見える。
第2回AI美芸研は松田先生の講演がメインと見えるが、その前に前座的に行われた中ザワ自身による「AI美芸研のアジェンダ」こそ意義のあるものだった。
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myinnerasia at 08:09|Permalink│Comments(0)
2016年08月08日
どうやら人工知能の研究というものは何らかの目に見える成果を見せることが必要なようである。
囲碁名人に勝つこと。レンブラントの画風を真似た絵を描けること。手書き文字を認識すること。
そのような何らかの目に見える成果を見せることによってそれは「工学」として認められるようになる。
つまり人工知能は最初から実学であることを求められているのである。
広義の人工知能の分野から出てきたテクノロジーに遺伝的アルゴリズムがある。
遺伝的アルゴリズムは無数のパラメータの最適な組み合わせを見つけるための技術で、これも目に見える成果を出すことが可能な技術である。
ところが、その遺伝的アルゴリズムを応用した、目に見える成果が期待できない技術がある。
人工生命だ。
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囲碁名人に勝つこと。レンブラントの画風を真似た絵を描けること。手書き文字を認識すること。
そのような何らかの目に見える成果を見せることによってそれは「工学」として認められるようになる。
つまり人工知能は最初から実学であることを求められているのである。
広義の人工知能の分野から出てきたテクノロジーに遺伝的アルゴリズムがある。
遺伝的アルゴリズムは無数のパラメータの最適な組み合わせを見つけるための技術で、これも目に見える成果を出すことが可能な技術である。
ところが、その遺伝的アルゴリズムを応用した、目に見える成果が期待できない技術がある。
人工生命だ。
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myinnerasia at 08:08|Permalink│Comments(0)
2016年08月02日
いつもここで書いている通り、僕は「第3次人工知能ブーム」というものに退屈している。
コンピューターが囲碁名人に勝っただとか、顔認識の精度が向上したなどといった目に見える成果を出さないことには研究予算が得られない、という事情は分かる。
だが、「そもそも知能とは何か?」ということの議論を軽視したまま、目に見えるものだけを追い求めることの軽薄さには気をつけなければならない。
退屈だからだ。
では人工生命についてはどうだろうか?
人工生命は何の役にも立たないというところが純粋である。
遺伝的アルゴリズムによって、複雑な問題の「近似解」を求める、ということも可能ではあるが、厳密にはそれは人工生命と呼ぶべきものではなく、ただ単に遺伝的アルゴリズムを応用した最適化技術に過ぎない。
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コンピューターが囲碁名人に勝っただとか、顔認識の精度が向上したなどといった目に見える成果を出さないことには研究予算が得られない、という事情は分かる。
だが、「そもそも知能とは何か?」ということの議論を軽視したまま、目に見えるものだけを追い求めることの軽薄さには気をつけなければならない。
退屈だからだ。
では人工生命についてはどうだろうか?
人工生命は何の役にも立たないというところが純粋である。
遺伝的アルゴリズムによって、複雑な問題の「近似解」を求める、ということも可能ではあるが、厳密にはそれは人工生命と呼ぶべきものではなく、ただ単に遺伝的アルゴリズムを応用した最適化技術に過ぎない。
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myinnerasia at 08:05|Permalink│Comments(0)
2016年07月31日
「第3次人工知能ブーム」と言われる昨今について、僕はずっと違和感を感じている。
あたかも「第1次人工知能ブーム」と「第2次人工知能ブーム」というものがあったかのような言葉遣いについて。
少なくとも、僕がニューラルネットの研究をしていた20年ほど前の頃のことを「第2次人工知能ブーム」などとは呼んでいなかった。
「第2次ニューラルネットブーム」あるいは「第2次パーセプトロンブーム」という言い方はあったのかも知れない。
なぜなら、当時は「ニューラルネット」と「人工知能」ははっきりと使い分けていたからだ。
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あたかも「第1次人工知能ブーム」と「第2次人工知能ブーム」というものがあったかのような言葉遣いについて。
少なくとも、僕がニューラルネットの研究をしていた20年ほど前の頃のことを「第2次人工知能ブーム」などとは呼んでいなかった。
「第2次ニューラルネットブーム」あるいは「第2次パーセプトロンブーム」という言い方はあったのかも知れない。
なぜなら、当時は「ニューラルネット」と「人工知能」ははっきりと使い分けていたからだ。
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myinnerasia at 10:09|Permalink│Comments(0)