フィー

2016年07月11日

以前「むてきんぐはやっぱり無敵だ」とここに書いた。
もう一度書いておくと、むてきんぐは架空請求業者に電話をかけておちょくる、というものである。
誰もが悪であるという人をみんなで叩いて笑いものにする」という問題が気になるものではあるのだが、むてきんぐの場合は、自虐的な笑いがひとつの芸として成り立っていると思う。

むてきんぐを模倣したものがたくさん出てきたが、いずれもそこまでの芸には至っていない。

そんな中、「山田ボイス」というものが登場した。
山田ボイスは、むてきんぐと同様、架空請求業者に電話しておちょくるものなのだが、別の電話で架空請求業者側が言ったこと(主にスゴみ)を録音(サンプリング?)して、それを話が噛みあうように流すことで、気づかれないように会話をさせる、というものだ。
「おれ山田」というセリフがあるため、この電話の主は「山田」ということになっており、「山田ボイス」と言われる。
 


おそらくこれはサンプリングした音声を、会話に合わせてうまく流すようにしているのだと思われる。
これがただサンプリングしたものを流しているだけ、ということにいかに気づかれないようにするか、ということが腕の見せどころだ。
電話に出ている架空請求業者側は、このサンプリング音声に対して見下した態度を取るのであるが、そこがまた滑稽である、という多重の笑い。「(笑)い」になるのかどうかはちょっとまだわからないが。

そして、これは人工無能との虚しい会話に似ていることに気づく。
山田ボイスの場合は、そのサンプリングを流す操作に人間の手が加わっているので、人工無能ではなくどちらかといえば、「中国語の部屋」に近いものといえるだろうか。いや、逆のような気もする。

「中国語の部屋」とは、チューリングテストを発展させた思考実験で、中国語が全く理解できない(漢字が読めない)人を箱の中に入れ、外から渡された中国語が書かれた紙に返事を書き込む、というものだ。
この外から渡された紙に書かれた内容によってどう返すべきか、というマニュアルが箱の中には入っており、これを見ながら、その中国語がわからない人は答えを返す。
外から質問を書いて箱の中に入れる人は、「この箱の中に中国語を理解できる人がいる」と考える、というものだ。

あらかじめ用意した、架空請求業者がスゴんでいる音声のサンプリングを、会話が成立するようにうまく流す。
最後までこの仕組みに気づかれない、ということは何ともすばらしい。 
「おまえはバカか?」「さっきから何同じことばっかり言ってんだよ」などと言われるが、それも滑稽である。
 

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2016年06月30日

いわゆる「B級映画」の正確な定義を僕は知らないが、「宇宙人王さんとの遭遇」は明らかにB級映画である。
定義はどうであれ、そこに「B級」と呼ぶべき空気が漂っていればそれはB級映画なのである。理屈なんてどうでもいいんだよ、ロケンロール!な言い方で申し訳ないが。

まずそのタイトルにある「王さん」とは「わんさん」と読む。つまり、中国語を話す宇宙人が登場する。もうこの設定ですでにB級映画(ロケンロール!)である。

そして驚くことにこの映画はイタリアで創られたものであり、現代は「L'arrivo di Wang」。王さんと通訳が中国語を話す以外はほぼイタリア語だけ。
YMO「君に、胸キュン。」の歌詞にある「イタリアの映画でも観てるようだね」というくだりにあるイタリア映画への幻想が崩れる。

まず、なぜ地球を訪れた宇宙人が中国語を話すか、ということだが、王さんによれば「地球に来た時に、地球上で最も話されている言葉だったので中国語を選んだ。」ということらしい。なるほどこれは理にかなっている。
なぜ舞台がイタリアなのかはよく分からない。おそらく制作も監督もイタリア人だったのでそうなった、というだけのことであろう。つまり元々イタリア国内向けに創られた映画が世界的に有名になってしまった、ということなのだと思う。

この映画に登場する王さんは、別に「王」という名前ではないのだが、中国語を話すというところから、中国人の象徴として「王」と名付けられ、映画全体としては間接的に中国人を揶揄する、という巧みな方法によって、想定されるであろう中国人からの過剰な反応を回避しようとしている。

地球に来た目的が「地球を征服するため」という疑惑をかけられた王さんは、紳士的な態度で疑惑について答えるが、やがて電気ショックによる拷問にかけられる。
中国語の通訳としてその場に来た主人公は、その拷問に反対をする。
ここで「そもそも宇宙人に人権はあるのか?」というチープなテーマが浮かび上がる。チープだ。あまり深く考えたくないなあ。
そして主人公はその拷問にかけられている王さんを助け出そうとするが。。。まあ裏切られるわな。

この映画は、ヨーロッパ人から見た中国人を遠巻きに描いている。
表面的には紳士的な態度を装っているが、裏で何をたくらんでいるかわからない、そして裏切る中国人。



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2016年06月24日

UGC(User Generated Content:ユーザが生成するコンテンツ)というバズワードが聞かれなくなるまでにはあまり時間がかからなかった。UGCという言葉がバズる前からそういうものはあったし、今現在でも、インターネット上で最も元気があるのはUGCだ。
UGCとは、その言葉そのままに、ユーザーが作ったコンテンツを集めた場、という意味で、それはその場を提供する者が自らコンテンツを作る、あるいは制作者が創ったものを配給する、という従来のコンテツビジネスと分けて考えるために用いられる。
YouTube、 Instagram、その他広い意味ではFacebook、TwitterなどのSNSもUGCの範疇に入れて考えてもいいものかも知れない。

にもかかわらず、そこで"UGC"という言葉が使われることはあまりない。

本来、「ユーザが生成するコンテンツを集めて提供する場」というものは破壊的な力を持つ。
場の提供者、あるいは場の提供者が用意した制作者には数に限りがあるため、そのコンテンツの数も当然のことながら有限となる。
それに対しUGCと呼ばれるサービスは、そこを訪れる客にコンテンツを公開する場を提供することで、コンテンツの数を無限にすることができるのだ。
量は質を凌駕する
量だけで勝負することになるのであれば、大竹伸朗であっても、プリンスであっても、池田学であっても、UGCの人海戦術の無限性にはかなわない。
コンテンツを公開する場を提供する者にとって、ある程度はコントロール可能であるだろうが、基本的にUGCは自然発生都市的、すなわちアジア的なものになり、やがてコントロール不可能なものになっていくことが目に見えている。

やがてUGCは量的にも質的にも爆発していくことになる。

つまりUGCは本質的に無敵であり、それをバズワードとしてしか考えられなかった者たちは、その本質に気づくことなく、やがて「当然のこと」のようになってしまった。

制作機械(大竹伸朗、プリンス、池田学)であってもその数においては歯が立たないUGCに対抗するとすれば、それはCGC(Computer Generated Content:コンピューターで生成するコンテント)だ。
CGCという言葉は調べても見つからないかも知れない。なぜなら今僕が作ったからだ。
コンピュータは文句をいっさい言うことなく、複雑で膨大な計算を人間よりもはるかに高速に繰り返してくれる。
この我慢強さは制作機械にも勝るし、CGCに負けないほどの無限性を持ちうるものである。
「文句をいっさい言うことなく、計算を繰り返してくれること」を、作品の生成に応用することで、コンピューターを「人工制作機械」にすることができる、というのが僕がずっとテーマにしていることだ。

そして、そこで創りだされる無限を感じさせるコンテンツこそが、僕がアジアと呼ぶものに他ならない。

myinnerasia at 08:08|Permalink

2016年06月23日

前回のあらすじ】
  • コモエスタ坂本が、自身のホームページ"Comoesta's Japan Home Vage"でやっていた嬲リンクに(仮称)ぴよぴよというポン引きホームページをリンクして嬲りものにした。
  • それを知った(仮称)ぴよぴよはコモエスタ坂本に抗議し、「裁判を起こす」とまでいう騒ぎになった。
  • 結局裁判はされなかったが、この事件はインターネットで個人が情報を公開すること、またそれをリンクすること、という問題を定義することであり、その後の日本のインターネット社会に大きな影響を及ぼすものであった。
僕はそんなコモエスタ坂本と一度だけ電話で話をしたことがある。
当時僕がやっていたAlife Gardenという、人工生命をウェブ上で育てる、というサイトに興味を持ったコモエスタ坂本が、自身のメルマガで人工生命特集をするとのことで取材を受けたのだ。
もう20年も前のことではあるが、取材のためのやり取り以外にも、ぴよぴよの件だとか、今後のインターネットについてだとか、色々なことを話したことを今でも覚えている。とにかく、始まったばかりのインターネットという新しい時代についてマジメに考えている人だった。

その後、僕は度々コモエスタ坂本について検索をかけてみるのだが、なぜだか今のコモエスタ坂本に関するものは何も見つからない。何も残っていない。
"Comoesta's Japan Home Vage"はもう残っていないし、Web Archiveでも見られなくなってしまった。Web世界遺産候補になっていると聞いたこともあるというのに。
僕との対談もかつてはインターネット上で閲覧できていたのだが、今はもうないようだ。

もしかしたらもうこの世界には存在しないのかもしれない。
あるいはそもそも存在しなかったのかもしれない。
でも、今でも僕は時々コモエスタ坂本を思い出す。
「コモさんならこういうときなんて言うだろう?」と考えることがよくある。
ブログについて。SNSについて。広告を中心とした今のインターネットビジネスについて。

僕にとってコモエスタ坂本は宇宙意識体である。  
映画「JM」に出てくる、時々登場して重要なメッセージを残す、ネット上にだけ存在する意識体のような。



myinnerasia at 08:03|Permalink

2016年06月22日

前回のあらすじ】
  • 20年前、インターネットが爆発的な普及を遂げる前夜、個人のホームページというものがあった。
  • まだブログが無かった当時は、HTMLを覚え、FTPでアップするという手作業をやっていた。
  • そんな中で、コモエスタ坂本がやっていた"Comoesuta's Japan Home Vage"は、今の2ちゃんねる用語の元となる独特の言葉遣いを最初に始めたものであった。
  • 当時は個人ホームページの中には、女性性をウリにしたものがあり、人気を獲得していた。
  • それをコモエスタ坂本が"Comoesta's Japan Home Vage"で取り上げ「嬲リンク」という企画にした。
  • そして(当然のことながら)事件が起こった。
嬲リンクは女性性をウリにしている女性のホームページを取りあげ、嬲りものにする企画であったが、ひとつだけ、例外的に男性がやっているホームページを取りあげたことがある。
今ではもう当時のページが残っていないので、記憶に頼るしかないが、「ぽよぴん」だか「ひろぽん」だか、そういう名前を名乗っている男性だったと思う。
面倒くさいので以降「ぴよぴよ」ということにしよう。絶対ぴよぴよではなかったけど。

で、その「ぴよぴよのホームページ」は当然自分の女性性をウリにするわけではなく、世の女性性をウリにしたホームページを集めたリンク集を公開するものであった。
コモエスタ坂本はそれを「ポン引きホームページ」として揶揄した。

コモエスタ坂本にとって、女性性をウリにすること、およびそういうものを集めたポン引きをすることそのものについては実はそんなに怒っていなかったのかも知れない。
それよりも彼は、まだ生まれたばかりのインターネットという環境における「リンク」の意味を問題提起したかったのだろう。
インターネット上に公開されているホームページに匿名性があるのか?インターネット上に公開されている情報に、公開している者はどこまで責任を負うことになるのか、という問題提起。

そのコモエスタ坂本の罠にまんまとはまったのが、まぬけなぴよぴよであった。

ぴよぴよは、自らのポン引きホームページが嬲リンクで笑いものにされていることを知って、コモエスタ坂本に抗議をしてきた。
その様子も逐一、"Comoesta's Japan Home Vage"公開されていた。

ぴよぴよの言い分はこうだ。
自分はリンクをする先の人たちにひとりずつ了解を得てリンクしている。そのページに無断でリンクを張って、そこにリンクされている彼女たちを笑いものにするのはけしからん。
なるほどポン引きとしてはその彼女たちを守るという態度はたいしたものだ。

だが、そもそもリンクを張るということに了解が必要という不文律は意味があるのか?
インターネット上で「リンクを張る」ということの意味は?
という問題に、ぴよぴよはあまりにも無頓着すぎた。

そもそも個人であっても、インターネット上で何らかの情報を発信するというときには、責任というものが発生するはずで、そこで発信した内容について反論されたり、揶揄されたりすることも当然想定されているべきである、ということをコモエスタ坂本が浮き彫りにしようとしていたのである。

その問題意識をまるで無視したまま興奮状態にあったぴよぴよはついに、「コモエスタ坂本を起訴する」とまで言い出した。
そのときのコモエスタ坂本の反応に、ライターとしてのプロ意識を感じた。
「ぴよぴよは口だけで『起訴する』などと言っているが、本当に起訴してくれたらライターとしてはネタができて嬉しい」と。

結局コモエスタ坂本の予想通り、裁判に至るまでにはいかなかったが、この事件はその後の日本のインターネットのありかたに大きく影響するものとなった。
 


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