虚構

2016年08月03日

以前ここに書いた「隠喩としての高級言語」という言葉は、もちろん柄谷行人の「隠喩としての建築」をもじったものである。


低級言語によってよりプリミティヴなものを記述することでその細部については取りあえず考えないことにすることによって、より大局的なものごとを考えることができる。
たとえば「関西人は薄味好み」というときに、「関西」とはどこを指すのか、「関西人」とは関西で生まれ育った者のことかそれとも関西に住んでいる者のことか、薄味とは塩分の比率が、、、などという細かい定義は普通しない。

ここでの「関西人」や「薄味」というものは、ここではとりあえずxとしたもので、そのxというものの定義が崩れると、「関西人は薄味好み」という文自体も意味のないものになる。
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2016年07月24日

SpyCommander
tesh nakamura 「スパイたちに告ぐ」



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2016年07月23日

「芸術とは何か?」という問いを芸術作品そのものによって最初に投げかけたのはマルセル・デュシャンであった。
 ジョン・ケージは「4分33秒」によって「音楽とは何か?」という問いを投げかけた。

それまでの芸術、音楽の役割であると広く考えられていた「美を追求する」、「美しい音の流れを追求する」という価値観から、芸術自身、音楽自身を芸術、音楽によって切り離す。
それは自己言及的であり、最終の姿でもある。

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2016年07月22日

プログラムには、その動作に影響しない文字を自由に書いても良い、「コメント」というものがある。
コメントはようするにプログラムの注釈である。コメントを入れることによって、後で他のプログラマーがその部分を見た時に理解しづらいところに注釈を加える。

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2016年07月15日

ジョン・ケージの「4分33秒」は、第一楽章から第三楽章までの三楽章構成となっており、そのいずれの楽章も「休止」のみで構成されている。つまりその演奏時間である4分33秒間、「無音」が続く。

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