(笑)い
2016年06月16日
「一番おもしろいと思うお笑いは何(誰)か?」と聞かれたら、僕は迷うことなく
伊集院光と答える。
大阪出身の僕にとって、関西芸人で彼よりもおもしろい、と思える芸人がいない
ということは何とも哀しいことではあるが、残念ながら伊集院が一番おもしろい、
という事実は変えられない。
実は僕は伊集院光と同い年で、他に同い年の有名人といえば、清原、石野卓球、
三浦知良、坂本冬美、ジュリア・ロバーツ等がいる。
伊集院光のおもしろさをひとことで言えば、その頭の回転の速さである。
彼は三遊亭円楽(元楽太郎)の弟子で、三遊亭楽大という落語家であったことは
有名であるが、落語家は廃業して、今はラジオでのしゃべくりをメインにしている。
現在やっている「深夜の馬鹿力」と、最近始まった「伊集院光とらじおと」と、他にも
あるかもしれないが、とにかく、いつも基本的にラジオの生放送で、勝負している。
伊集院が生放送で見せるアドリブ芸の回転の速さは、同い年の僕にとって、
驚きである。50歳を目前としてあれだけ脳が回転するとは!
たとえば、、、
フリートーク中の話の流れで、「もし自分が謝罪会見をするとしたら」という例として、
「オーストラリアの両生類を自分の不注意で間違って全滅させてしまった」という
普通は思いつかない例がパッと出てくる。
。。。すごい。
西には、同様に落語から入って、ラジオの世界に"転向"した芸人、笑福亭鶴瓶がいる。
笑福亭鶴瓶も伊集院と同じく、 生のラジオ放送を長く続けていた(今も?)。
伊集院と鶴瓶の共通点は、ラジオ、下ネタ、自虐性、とあるが(体型も?)、そのいずれ
もがそれぞれ微妙に異なっている。
鶴瓶はいわゆる「大阪のおばちゃん」的な笑いであるのに対し、伊集院の
それは「高回転マシン」というべきか。
漢字一文字で表すなら、「鶴瓶=鈍、伊集院=鋭」。
鶴瓶の下ネタについては、テレビの生放送で下半身を露出する事件以外、あまり
知られていないことかもしれないが、ラジオでの鶴瓶の下ネタにも、「鈍さ」が
よく出ていて味わい深いものである。
伝説のラジオ番組、「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」という関西圏でしか流れて
いなかった深夜放送。鶴瓶と放送作家、新野新の二人が、二時間ぶっつづけで
世間話をする、という、聞いたことのない人にとっては何がおもしろいのか伝わり
づらいかも知れないが、とにかくディープな世界を繰り広げていた番組で、
おそらく今の時代には不可能なのではないか、とさえ思えるものであった。
ここでされる下ネタは、本当に大阪のおばちゃん二人が下町で話しているような
下世話な会話で、その鈍い感じがなんとも面白かった。
伊集院の下ネタはそれとは全く異なる。
伊集院のおもしろさは、基本的に自虐的な笑いをベースにしている、という点は
鶴瓶と共通するのかも知れないが、その自虐性を「共有」するのではなく、「自分だけ
が劣っている」ということを強調する点で大きく異なる。
下ネタについても、自分が仮性包茎で短小であること、変態的な嗜好(の持ち主
であることを演じる)、年に何度かうんこを漏らす(これは事実のようだ)など、
自虐性によって観客と自分が違う、ということをおもしろさとして強調する。
ある意味、これは観客を「突き放す」ことであり、そこにスピード感が生まれるの
かも知れない。
これは、自虐的でありながらそれを観客と「共有」しようとする鶴瓶とは大きく異なる。
下ネタ以外であっても、学歴が低いこと、高校生時代にひきこもりであったこと、
オシャレな場が苦手なこと、体型と目つき(蛇のような)などを自虐的に笑いにする。
それらは他の自虐ネタに見られるような痛々しさはなく、「笑える笑い」にしている
ところが彼の芸である。
鶴瓶が「ぬかるみの世界」をまったりとした時間が流れる生放送として、ディープな
世界を繰り広げていたのに対し、伊集院の深夜放送はとにかくスピーディーに
時間が流れながらもディープ。
特に伊集院のフリートークはたまらない。
一週間に起こったできごと(自転車でどこかに行った話が多い)を話す中で、
脱線したボケを入れる。これが芸風。
ラジオなので、何らかのメモ書きを見ているのかどうか定かではないが、聴いている
限りでは間違いなくアドリブであると思われるボケがところどころに挟まれる。
このスピード感がたまらない。
僕と同い年(アラフィフ)の芸人が、中高生のハートをちゃんと掴めている、という
こともすごいことだが、これもこのスピード感にあるのだろう。
伊集院光と答える。
大阪出身の僕にとって、関西芸人で彼よりもおもしろい、と思える芸人がいない
ということは何とも哀しいことではあるが、残念ながら伊集院が一番おもしろい、
という事実は変えられない。
実は僕は伊集院光と同い年で、他に同い年の有名人といえば、清原、石野卓球、
三浦知良、坂本冬美、ジュリア・ロバーツ等がいる。
伊集院光のおもしろさをひとことで言えば、その頭の回転の速さである。
彼は三遊亭円楽(元楽太郎)の弟子で、三遊亭楽大という落語家であったことは
有名であるが、落語家は廃業して、今はラジオでのしゃべくりをメインにしている。
現在やっている「深夜の馬鹿力」と、最近始まった「伊集院光とらじおと」と、他にも
あるかもしれないが、とにかく、いつも基本的にラジオの生放送で、勝負している。
伊集院が生放送で見せるアドリブ芸の回転の速さは、同い年の僕にとって、
驚きである。50歳を目前としてあれだけ脳が回転するとは!
たとえば、、、
フリートーク中の話の流れで、「もし自分が謝罪会見をするとしたら」という例として、
「オーストラリアの両生類を自分の不注意で間違って全滅させてしまった」という
普通は思いつかない例がパッと出てくる。
。。。すごい。
西には、同様に落語から入って、ラジオの世界に"転向"した芸人、笑福亭鶴瓶がいる。
笑福亭鶴瓶も伊集院と同じく、 生のラジオ放送を長く続けていた(今も?)。
伊集院と鶴瓶の共通点は、ラジオ、下ネタ、自虐性、とあるが(体型も?)、そのいずれ
もがそれぞれ微妙に異なっている。
鶴瓶はいわゆる「大阪のおばちゃん」的な笑いであるのに対し、伊集院の
それは「高回転マシン」というべきか。
漢字一文字で表すなら、「鶴瓶=鈍、伊集院=鋭」。
鶴瓶の下ネタについては、テレビの生放送で下半身を露出する事件以外、あまり
知られていないことかもしれないが、ラジオでの鶴瓶の下ネタにも、「鈍さ」が
よく出ていて味わい深いものである。
伝説のラジオ番組、「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」という関西圏でしか流れて
いなかった深夜放送。鶴瓶と放送作家、新野新の二人が、二時間ぶっつづけで
世間話をする、という、聞いたことのない人にとっては何がおもしろいのか伝わり
づらいかも知れないが、とにかくディープな世界を繰り広げていた番組で、
おそらく今の時代には不可能なのではないか、とさえ思えるものであった。
ここでされる下ネタは、本当に大阪のおばちゃん二人が下町で話しているような
下世話な会話で、その鈍い感じがなんとも面白かった。
伊集院の下ネタはそれとは全く異なる。
伊集院のおもしろさは、基本的に自虐的な笑いをベースにしている、という点は
鶴瓶と共通するのかも知れないが、その自虐性を「共有」するのではなく、「自分だけ
が劣っている」ということを強調する点で大きく異なる。
下ネタについても、自分が仮性包茎で短小であること、変態的な嗜好(の持ち主
であることを演じる)、年に何度かうんこを漏らす(これは事実のようだ)など、
自虐性によって観客と自分が違う、ということをおもしろさとして強調する。
ある意味、これは観客を「突き放す」ことであり、そこにスピード感が生まれるの
かも知れない。
これは、自虐的でありながらそれを観客と「共有」しようとする鶴瓶とは大きく異なる。
下ネタ以外であっても、学歴が低いこと、高校生時代にひきこもりであったこと、
オシャレな場が苦手なこと、体型と目つき(蛇のような)などを自虐的に笑いにする。
それらは他の自虐ネタに見られるような痛々しさはなく、「笑える笑い」にしている
ところが彼の芸である。
鶴瓶が「ぬかるみの世界」をまったりとした時間が流れる生放送として、ディープな
世界を繰り広げていたのに対し、伊集院の深夜放送はとにかくスピーディーに
時間が流れながらもディープ。
特に伊集院のフリートークはたまらない。
一週間に起こったできごと(自転車でどこかに行った話が多い)を話す中で、
脱線したボケを入れる。これが芸風。
ラジオなので、何らかのメモ書きを見ているのかどうか定かではないが、聴いている
限りでは間違いなくアドリブであると思われるボケがところどころに挟まれる。
このスピード感がたまらない。
僕と同い年(アラフィフ)の芸人が、中高生のハートをちゃんと掴めている、という
こともすごいことだが、これもこのスピード感にあるのだろう。
myinnerasia at 18:06|Permalink
笑いの種類として、「自虐的な笑い」というものがある。(笑)いではなくて笑い。
自分がいかに劣っているか、ということをさらけ出すことで笑いをとる。
嘲笑をとることになっているのかもわからない。
でもそこには自分の弱みをすべてさらけ出してしまったあとの強さがある。
ある意味で無敵だ。
考えてみたら、フィーというのも自虐の強さなのかもしれない。
哀しき敗北宣言、という意味で。
たとえばむてきんぐは無敵ではあるが、彼のおもしろさには自虐性がある。
自らを「無職ニート」と名乗ったり、九州の方言を強調して、相手に「おまえは
シティーボーイを気取ってるのか!」とわざとイタいことを言ったり。
あるいは現代美術二等兵も、そのネーミングからして自虐的である。
兵隊の階級としては微妙な二等兵と名乗ること。
お菓子に「駄菓子」というものがあるように、美術にも「駄」があってもいいだろう、
ということで、自分たちの作品ジャンルを自ら「駄美術」と呼ぶ。
むてきんぐ、現代美術二等兵はいずれも、自虐的な態度を(笑)いにすることで
無敵になることに成功している。
ただ、自虐的な笑いの中にも、ぜんぜんダメなものがある。
「サラリーマン川柳」だ。
毎年、サラリーマンから川柳を募集していて、今回で第29回とのことだが、
こんなにつまらないことを30年近くもやっているのか、とあきれてしまう。
はやくこういうのはやめていただきたい。つまらなすぎるから。
サラリーマンが日々のサラリーマン生活を自虐的に川柳にするのには別に
なんとも思わないが(おもしろくもないけど)、妻や子供から虐げられている様を
自虐的におもしろおかしく川柳にしているものが多い。
これは、自虐のように見えて、本質的にはイジメと同じものである。かっこ悪い。
「自分で自分のことを貶めているんだから、イジメにはならないじゃないか」と
いう反論は認めない。
専業主婦が自虐的に、夫や子供から虐げられている様を川柳にすることは、
たとえそういう事実があったとしてもタブーである。笑えない。
それがそのまま逆になったというだけで、なぜ笑うことができるのか?(僕は
ぜんぜん笑わないけど)
要するに、サラリーマン川柳という醜い世界においては、サラリーマンは「誰が
叩いてもいい人」なのである。
みんなで笑いものにしよう、こいつはみんながオチにしてもいい人ですよ、という
公開処刑。
これは明らかに、むてきんぐや現代美術二等兵の自虐的な笑いとは質が異なる。
低レベルでダメダメだ。
今年のサラリーマン川柳の第一位の作品は、笑えないのはいつものことだが、
意味もよくわからない。
退職金 もらった瞬間 妻ドローン
???
ちょっと昔の言葉で「ドロンする」という、要するに「姿が消える」という意味で
あるのは分かるが、それと「ドローン」がどう関係しているのか?
退職金と何か掛詞になっているのに僕が気づいていないだけ???
そもそも、これを一位にした理由は、やはりいつもの夫の自虐性なのか?
公開処刑なのか?
「この、『妻ドローン』ってあたりが、今流行りのドローンと掛かっていて今年っぽいでゲスよ」
「退職まで働いて、退職金貰ったら妻がそれを持って消えちゃう、というサラリーマンの
哀しさが出ていていい感じでヤンス」
ここでもゲスでヤンスなやつらが世界をつまらなくしている。
自分がいかに劣っているか、ということをさらけ出すことで笑いをとる。
嘲笑をとることになっているのかもわからない。
でもそこには自分の弱みをすべてさらけ出してしまったあとの強さがある。
ある意味で無敵だ。
考えてみたら、フィーというのも自虐の強さなのかもしれない。
哀しき敗北宣言、という意味で。
たとえばむてきんぐは無敵ではあるが、彼のおもしろさには自虐性がある。
自らを「無職ニート」と名乗ったり、九州の方言を強調して、相手に「おまえは
シティーボーイを気取ってるのか!」とわざとイタいことを言ったり。
あるいは現代美術二等兵も、そのネーミングからして自虐的である。
兵隊の階級としては微妙な二等兵と名乗ること。
お菓子に「駄菓子」というものがあるように、美術にも「駄」があってもいいだろう、
ということで、自分たちの作品ジャンルを自ら「駄美術」と呼ぶ。
むてきんぐ、現代美術二等兵はいずれも、自虐的な態度を(笑)いにすることで
無敵になることに成功している。
ただ、自虐的な笑いの中にも、ぜんぜんダメなものがある。
「サラリーマン川柳」だ。
毎年、サラリーマンから川柳を募集していて、今回で第29回とのことだが、
こんなにつまらないことを30年近くもやっているのか、とあきれてしまう。
はやくこういうのはやめていただきたい。つまらなすぎるから。
サラリーマンが日々のサラリーマン生活を自虐的に川柳にするのには別に
なんとも思わないが(おもしろくもないけど)、妻や子供から虐げられている様を
自虐的におもしろおかしく川柳にしているものが多い。
これは、自虐のように見えて、本質的にはイジメと同じものである。かっこ悪い。
「自分で自分のことを貶めているんだから、イジメにはならないじゃないか」と
いう反論は認めない。
専業主婦が自虐的に、夫や子供から虐げられている様を川柳にすることは、
たとえそういう事実があったとしてもタブーである。笑えない。
それがそのまま逆になったというだけで、なぜ笑うことができるのか?(僕は
ぜんぜん笑わないけど)
要するに、サラリーマン川柳という醜い世界においては、サラリーマンは「誰が
叩いてもいい人」なのである。
みんなで笑いものにしよう、こいつはみんながオチにしてもいい人ですよ、という
公開処刑。
これは明らかに、むてきんぐや現代美術二等兵の自虐的な笑いとは質が異なる。
低レベルでダメダメだ。
今年のサラリーマン川柳の第一位の作品は、笑えないのはいつものことだが、
意味もよくわからない。
退職金 もらった瞬間 妻ドローン
???
ちょっと昔の言葉で「ドロンする」という、要するに「姿が消える」という意味で
あるのは分かるが、それと「ドローン」がどう関係しているのか?
退職金と何か掛詞になっているのに僕が気づいていないだけ???
そもそも、これを一位にした理由は、やはりいつもの夫の自虐性なのか?
公開処刑なのか?
「この、『妻ドローン』ってあたりが、今流行りのドローンと掛かっていて今年っぽいでゲスよ」
「退職まで働いて、退職金貰ったら妻がそれを持って消えちゃう、というサラリーマンの
哀しさが出ていていい感じでヤンス」
ここでもゲスでヤンスなやつらが世界をつまらなくしている。
myinnerasia at 06:08|Permalink
2016年06月13日
2700 「キリンスマッシュ」
ある日、めったにテレビを観ない僕がたまたまつけていたテレビで流れていたあるお笑い番組を観て
あっけにとられた。
キリンスマッシュ。
聞いたこともなかった芸人(2700)が、繰り広げる()シュールなギャグ。
言葉での説明が一切なく、それを観ているうちにルールがわかってくる、という逆育てゲー。
登場人物(人物?)がどういう立場なのかもよくわからないが、 特に象が音楽に合わせて踊ったり、
賭けに負けたらさらに大きく賭けて取り戻そうとしたり、どんどん興奮したり、という様が妙にリアルだ。
象だけど。
そして最後の賭けも一旦負けてしまって、すっかり落胆して帰ろうとしたところに、「敗者復活!」
みたいなものがもう一度ある、というところまで、とにかくこれはあるあるネタだ。
絶対にありえない光景だというのに、どこかで見たような光景を描くシュールなあるあるネタ。
()シュールなギャグ、()シュールな作品というものは、現実世界での文脈を外すことで、現実を超える
ものであるはずだが、そこには、「あるある」がないことには、最後まで鑑賞者と共感することが
できなくなる。
「鑑賞者と共感なんてできなくてもいいから、オレはオレの世界を描くんだ!」
というのは苦悩系(笑)である。
少なくともお笑いの世界においては、それが観客を笑わせることが仕事である以上、
()シュールなギャグは必然的にあるあるネタになる。
昨日取り上げた、板尾係長についても、()シュールなギャグでありながら、いかにも係長が言いそうな
ことを、係長的な口調で一言だけ言う、というあるあるネタでもある。
そして、お笑い意外の分野(アートなど)においても、()シュールな作品は、あるあるネタを目指すべきである。
たとえそこに(笑)いがない場合であっても。
苦悩系にならないために。
myinnerasia at 06:07|Permalink
2016年06月12日
あるあるネタがおもしろいのは、誰もがうすうすは気づいているが、まだ意識上には
のぼってきていない微妙なことに気づかせてくれる風景を顕在化される気持ちよさが
あるからだ。
どこかで見たことのある風景。
それをちゃんと意識化するとおもしろい風景だったことに気づく。
あるあるネタは何も現代のお笑いのパターンというわけではなく、古くから存在する。
モノマネというものは本質的にはすべてあるあるネタだ。
誰もが(うすうす)気づいているある人(有名人であることが多い)の特徴を強調することで、
その特徴に気づかせる。中にはモノマネされている本人も気づいていないような微妙なクセなどを。
現代のあるあるネタで一番おもしろいのは友近だ。
彼女のモノマネの特徴は、それまでのものとは違って、誰もが知っている有名人のモノマネを
するのではなく、「誰もが見たことのあるよくいる人」を真似る、という点だ。
たとえば下記。
この「イタい女性シンガー」は、見ているこっちが恥ずかしくなるような感覚、その場にいることの
苦痛も含めた空気感までをリアルに描いている。
これはある特定の人を描いているのではなく、「よくいる人」を描いている、という意味において、
それまでのモノマネよりもメタレベルにある。
つまり、それまでのモノマネが「ある特定の人をモノマネしている」というものだったのに対し、
友近のモノマネは、「世界をモノマネしている」ということになる。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことに気づかせること。
あるあるネタはお笑いだけのものではなく、アートでも、科学でも、あるいはそのどちらとも言えない
なにものかについても可能なものである。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことを描いたアート作品。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことを考察した科学研究。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことに気づかせるなにものか。
のぼってきていない微妙なことに気づかせてくれる風景を顕在化される気持ちよさが
あるからだ。
どこかで見たことのある風景。
それをちゃんと意識化するとおもしろい風景だったことに気づく。
あるあるネタは何も現代のお笑いのパターンというわけではなく、古くから存在する。
モノマネというものは本質的にはすべてあるあるネタだ。
誰もが(うすうす)気づいているある人(有名人であることが多い)の特徴を強調することで、
その特徴に気づかせる。中にはモノマネされている本人も気づいていないような微妙なクセなどを。
現代のあるあるネタで一番おもしろいのは友近だ。
彼女のモノマネの特徴は、それまでのものとは違って、誰もが知っている有名人のモノマネを
するのではなく、「誰もが見たことのあるよくいる人」を真似る、という点だ。
たとえば下記。
この「イタい女性シンガー」は、見ているこっちが恥ずかしくなるような感覚、その場にいることの
苦痛も含めた空気感までをリアルに描いている。
これはある特定の人を描いているのではなく、「よくいる人」を描いている、という意味において、
それまでのモノマネよりもメタレベルにある。
つまり、それまでのモノマネが「ある特定の人をモノマネしている」というものだったのに対し、
友近のモノマネは、「世界をモノマネしている」ということになる。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことに気づかせること。
あるあるネタはお笑いだけのものではなく、アートでも、科学でも、あるいはそのどちらとも言えない
なにものかについても可能なものである。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことを描いたアート作品。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことを考察した科学研究。
誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なことに気づかせるなにものか。
myinnerasia at 06:03|Permalink
2016年06月11日
お笑いにはある一定のパターンなり約束事なりがあるはずだが、それらを逸脱して
訳がわからなくなっている笑いを指して「シュールな笑い」あるいは「シュールなギャグ」
という言いかたがある。
たとえば下記。
これは20年ほど前に「ダウンタウンのごっつええ感じ」で板尾創路が時々やっていた
「板尾係長」という20秒ほどの短尺もの。
工場をバックにプールがあり、毎回このプールから板尾係長が出てきて、一言だけ
何かを言う、というだけのもの。
ここで板尾係長が言う一言が、毎回、いかにも係長という役職の人が言いそうなこと
なのである。
工場をバックにしている、プールから係長が出てくる、ゴジラのテーマが流れる、、、
訳が分からない。
一般にこういう類のお笑いを「シュールな笑い」という。
この「シュール」とは、もちろん「シュルレアリスム」からきたものだろう。だが、本来の
「シュルレアリスム」と何の関係があるというのだろう?
芸術運動におけるシュルレアリスムとは、ロートレアモンの言葉にある、
「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」
というように、現実から逸脱することで文脈を外していく、ということである。
「超現実主義」と訳されるのも、現実を「超える」という上記の意味から来ている。
そういう意味では、いわゆる「シュールな笑い」というものは、現実から逸脱して
文脈を無視した笑い、ということで間違っているわけではないような気もする。
だが、現実から逸脱して文脈が外れることでなぜ笑いが起こるのだろうか?
芸術運動としてのシュルレアリスムの作品を観ても笑いが起こらないのはなぜだろうか?
やっぱり「シュールな笑い」ということばはどうもしっくり来ない。
僕は、「シュールな笑い」という言葉は、別の言葉に置き換えられるべきだと思っている。
だが、それに置き換えるのにふさわしい言葉がなかなか見つからない。
とりあえず今は「シュールな(笑)い」とでも言っておくことにしよう。そうしよう。
「笑い」という言葉を使わない場合については?
「シュールなギャグ」、「シュールな作品」、、、
これらについては、頭に「(いわゆる)」とカッコつきで付けたくなる。
「『シュールな』という言い方に納得してませんよー」という気持ちで。
だが、毎回「(いわゆる)」を付けるのもうっとおしいので、「()」と省略することで、
「()シュールなギャグ、「()シュールな作品」と言うことにしよう。そうしよう。
訳がわからなくなっている笑いを指して「シュールな笑い」あるいは「シュールなギャグ」
という言いかたがある。
たとえば下記。
これは20年ほど前に「ダウンタウンのごっつええ感じ」で板尾創路が時々やっていた
「板尾係長」という20秒ほどの短尺もの。
工場をバックにプールがあり、毎回このプールから板尾係長が出てきて、一言だけ
何かを言う、というだけのもの。
ここで板尾係長が言う一言が、毎回、いかにも係長という役職の人が言いそうなこと
なのである。
工場をバックにしている、プールから係長が出てくる、ゴジラのテーマが流れる、、、
訳が分からない。
一般にこういう類のお笑いを「シュールな笑い」という。
この「シュール」とは、もちろん「シュルレアリスム」からきたものだろう。だが、本来の
「シュルレアリスム」と何の関係があるというのだろう?
芸術運動におけるシュルレアリスムとは、ロートレアモンの言葉にある、
「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」
というように、現実から逸脱することで文脈を外していく、ということである。
「超現実主義」と訳されるのも、現実を「超える」という上記の意味から来ている。
そういう意味では、いわゆる「シュールな笑い」というものは、現実から逸脱して
文脈を無視した笑い、ということで間違っているわけではないような気もする。
だが、現実から逸脱して文脈が外れることでなぜ笑いが起こるのだろうか?
芸術運動としてのシュルレアリスムの作品を観ても笑いが起こらないのはなぜだろうか?
やっぱり「シュールな笑い」ということばはどうもしっくり来ない。
僕は、「シュールな笑い」という言葉は、別の言葉に置き換えられるべきだと思っている。
だが、それに置き換えるのにふさわしい言葉がなかなか見つからない。
とりあえず今は「シュールな(笑)い」とでも言っておくことにしよう。そうしよう。
「笑い」という言葉を使わない場合については?
「シュールなギャグ」、「シュールな作品」、、、
これらについては、頭に「(いわゆる)」とカッコつきで付けたくなる。
「『シュールな』という言い方に納得してませんよー」という気持ちで。
だが、毎回「(いわゆる)」を付けるのもうっとおしいので、「()」と省略することで、
「()シュールなギャグ、「()シュールな作品」と言うことにしよう。そうしよう。
myinnerasia at 05:07|Permalink