2016年10月25日
昔は「プログラム」と呼んでいたものがいつのころからか「コード」というようになった。
今でも「プログラム」という言葉は使われているが、「コード」と使い分けられていて、「プログラム」という場合はアルゴリズムから、それを実行した時のものまでをも含めて広い意味で使われているのに対し、「コード」はそのプログラムを表したテキストそのものを表しているように思う。
「コード」は「ソースコード」や「ソース」と呼ばれることもある。
つまりは「プログラム」にとっての「源」といういことだ。
演劇や映画にとっての台本。
建築にとっての設計図。
音楽にとっての楽譜。
といったところか。
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今でも「プログラム」という言葉は使われているが、「コード」と使い分けられていて、「プログラム」という場合はアルゴリズムから、それを実行した時のものまでをも含めて広い意味で使われているのに対し、「コード」はそのプログラムを表したテキストそのものを表しているように思う。
「コード」は「ソースコード」や「ソース」と呼ばれることもある。
つまりは「プログラム」にとっての「源」といういことだ。
演劇や映画にとっての台本。
建築にとっての設計図。
音楽にとっての楽譜。
といったところか。
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2016年10月24日
府中市美術館で行われた、横尾忠則の公開制作を観に行った。
今見てみたら、もう5年前だったんだなあ。時蝿は矢を好む。
公開制作では、僕が大好きな「Y字路」シリーズを何枚か描くところが見られた。あの名シリーズができるところに立ち会うことができて、なんとも至福の時を過ごせた。
そのY字路シリーズで描かれる家に、"450"という番地と思える数字を何度か描くことがあった。僕はすぐに「ヨコオ」の語呂合わせだと気づいて、そのユーモアにニヤッと笑ってしまったのだが、そのあとに"4503"とした時には本当に吹き出しそうになった。自分に"さん”をつけてるよー、と。
公開制作の最後に、横尾忠則本人からの挨拶と、観客からの質問に答える、というのがあった。サービス満点である。
そのときにある女性が、「ところどころに"450"という数字が出てきましたが、何か意味があるのですか?」と尋ねていた。僕は「おいおい、気づかない人がいるのかー」とびっくりしたのだが、そのときの横尾の回答がまた良かった。
「それはご想像にお任せします」
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今見てみたら、もう5年前だったんだなあ。時蝿は矢を好む。
公開制作では、僕が大好きな「Y字路」シリーズを何枚か描くところが見られた。あの名シリーズができるところに立ち会うことができて、なんとも至福の時を過ごせた。
そのY字路シリーズで描かれる家に、"450"という番地と思える数字を何度か描くことがあった。僕はすぐに「ヨコオ」の語呂合わせだと気づいて、そのユーモアにニヤッと笑ってしまったのだが、そのあとに"4503"とした時には本当に吹き出しそうになった。自分に"さん”をつけてるよー、と。
公開制作の最後に、横尾忠則本人からの挨拶と、観客からの質問に答える、というのがあった。サービス満点である。
そのときにある女性が、「ところどころに"450"という数字が出てきましたが、何か意味があるのですか?」と尋ねていた。僕は「おいおい、気づかない人がいるのかー」とびっくりしたのだが、そのときの横尾の回答がまた良かった。
「それはご想像にお任せします」
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2016年10月23日
「表現することに逃げる」だとか、「身体感覚に訴えることに逃げる」という表現をしたので、まるで僕が(芸術的な)表現することそのものを否定しているように思われたかも知れないが、そういうことを言ったつもりはない。
僕が言いたいことは、表現、および表現の手法に主眼を置きすぎて、本来そこで表現されるべきだったものがないがしろになる、ということが本末転倒である、ということだ。
これは今の第3次AIブームについても言えることである。
芸術作品だけではなく、なんらかの製品をも含めたある作品について、作者がその作品のコンセプトとして考えていることが、その作品を観るだけでわかる、ということはよくある。
これは「作品に語らせる」ことに成功した例だろう。
一方で僕は、何らかの作品が説明不足であることが逆育てゲーである、と書いたことがある。
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僕が言いたいことは、表現、および表現の手法に主眼を置きすぎて、本来そこで表現されるべきだったものがないがしろになる、ということが本末転倒である、ということだ。
これは今の第3次AIブームについても言えることである。
芸術作品だけではなく、なんらかの製品をも含めたある作品について、作者がその作品のコンセプトとして考えていることが、その作品を観るだけでわかる、ということはよくある。
これは「作品に語らせる」ことに成功した例だろう。
一方で僕は、何らかの作品が説明不足であることが逆育てゲーである、と書いたことがある。
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2016年10月22日
ハリボテだとかつっかえ棒だとかにたとえて、僕が「創ることについて」思っていることをダラダラと書いてみたが、要するに僕は、「見せるために創る」ということにあまり興味がないんだな、と気づいた。
「見せること」を第一に考えたものだからこそ、「ハリボテ」というテクニックは効果的な技術であろうし、「見せること」に影響を与えないのであれば、その場しのぎの「つっかえ棒」は大した問題ではないのかもしれない。
でも僕がものを創るときには、「見せること」よりもまず、その作品の本質こそを大切にしたい、と考えている。
なので4Kだの8Kだのの超高精細画像にもあまり興味がないし、映像の凄さをウリにしている最近のゲームにもあまり興味はない。
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「見せること」を第一に考えたものだからこそ、「ハリボテ」というテクニックは効果的な技術であろうし、「見せること」に影響を与えないのであれば、その場しのぎの「つっかえ棒」は大した問題ではないのかもしれない。
でも僕がものを創るときには、「見せること」よりもまず、その作品の本質こそを大切にしたい、と考えている。
なので4Kだの8Kだのの超高精細画像にもあまり興味がないし、映像の凄さをウリにしている最近のゲームにもあまり興味はない。
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