2016年10月20日

ものを創るとき、それが他人に見せるためのものなのか、自分を高めるためのものなのかによって、出来上がりは同じに見えても、その作品の意味は大きく異なる。

具体的には、、、たとえば3D空間を描くプログラミングの例で言えば、その3D空間の中で遠くに見える背景を細かく作りこむのか、遠くに見えるものはそのプログラムの本質に関係ない、ということで画像を貼り付けて、遠くの景色に見えるようにするのか、ということがよくある。

プログラムの本質に関係ないので、効率化のために(=高速化のために)処理を省けるところは省く、という考え方は正しい。車のプロモーションのためのCG動画で、遠くにある木の葉っぱ一枚一枚まで描きこむことはナンセンスだ。
このときの遠くの木をあらかじめ用意しておいた木の画像を貼り付けることで処理を省くことは、要するに「ハリボテ」である。

「どう見られるか」に集中してものを創ること。
このハリボテは、いわゆる「作品」と呼ばれるものだけではなく、たとえばビジネス・シーンにおけるプレゼンテーションなど、いたるところに見られるものである。
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myinnerasia at 08:05|PermalinkComments(0)創ることについて 

2016年10月19日

前回の続き。

ニューラルネットが色々な人が書いた手書き文字を正しく認識する、ということは文字そのものを学習で覚えるというのではなくて、文字を一般化して学習する能力を持っている、ということである。
このことに注目した僕は、一般的に「論理的である」と考えられている「形態理論」、たとえば「左右対称性」などのような論理的に扱うことが考えられるような問題について、そこにゆらぎ、すなわちその論理性から外れる部分があったとしてもそれらを丸めて扱うことがニューラルネットには可能なのではないだろうか?という仮説に基づいて、それを僕は実験によって証明した。
結論としては、ニューラルネットは人間と同様、形態理論から少し外れる程度のゆらぎであれば、それらを含めて認識できるようになる、ということが分かった。

形そのものを扱う「手書き文字認識」にとって、 この「ゆらぎを含む形態理論認識」というものは、ひとつメタレベルの問題を扱っていることになるのではないだろうか?
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2016年10月18日

僕が20年ほど前にニューラルネットを研究していた時のこと。
当時のぼくは建築を専攻していたのでそこでニューラルネットの研究をするというのもおかしなことだが、実際に当時の建築の分野でニューラルネットの研究をしている者は、僕の知る限り僕だけだった。

建築学科でニューラルネットを研究することにどういう意味があるのか?ということであるが、僕がやりたかったことは、建築の分野で当たり前のように考えられていて、建築学科の学生の基本として普通に教えられている「形態理論」というものが、実は論理的なものではなく、非常に直感に頼ったものなのではないか?という直感に基づく仮説についての考察だった。

そして「ニューラルネットは手書き文字を認識することができる」ということに注目した僕は、それを形態理論の認識に応用できないだろうか?ということを考えたわけだ。

このとき重要なことは、当時「形態理論」と呼ばれていたものが本当に論理的なものであるのであれば、コンピュータでそれを判定することは難しいものであるとは思わなかったが、そこに「あいまいさ」が加わると、普通のコンピューターのアルゴリズムではそれを判断することができなくなってしまう、ということだ。
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2016年10月17日

第1回第2回に続き、第3回人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)に参加してきた。
「参加してきた」とは言うものの今回もこれまでと同様、野次馬以上恋人未満という立場で傍観してきた、という感じだ。

今回は中ザワヒデキによる「循環史観とAI反芸術」という濃い〜い話から始まり、続いて三宅陽一郎の「人工知能に、人工的な美を追求させることは如何にして可能か?」という、ゲーム制作の立場から見たAIについての話、そして斉藤環による「"意味"がわからないAIのために」という、精神科医の立場からのAI批判と続いた。

それぞれの細かい内容は省くとして、ここでは僕の感想をさらっと書いておこうと思う。
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