表現することに逃げるというどうしようもない弱さと強くあることについて解釈は観る人に委ねます

2016年10月23日

ふたたび、説明不足であることについて

「表現することに逃げる」だとか、「身体感覚に訴えることに逃げる」という表現をしたので、まるで僕が(芸術的な)表現することそのものを否定しているように思われたかも知れないが、そういうことを言ったつもりはない。

僕が言いたいことは、表現、および表現の手法に主眼を置きすぎて、本来そこで表現されるべきだったものがないがしろになる、ということが本末転倒である、ということだ。
これは今の第3次AIブームについても言えることである。

芸術作品だけではなく、なんらかの製品をも含めたある作品について、作者がその作品のコンセプトとして考えていることが、その作品を観るだけでわかる、ということはよくある。
これは「作品に語らせる」ことに成功した例だろう。 

一方で僕は、何らかの作品が説明不足であることが逆育てゲーである、と書いたことがある。
 

ある作品について、そこに込められたコンセプトというものが、観る者にとっては少々何回であるために、すぐにはそれを読み解けない、ということがある。
僕は、作品鑑賞とは作者が込めたコンセプトを読み解くゲーム、ぐらいに考えているので、この答えがひと目でわかるものではあまりゲームが楽しめない。

一方で、そのコンセプトそのものはそれほど難解なわけではなくても、ある説明を聞かないとそのゲームのおもしろさにさえ気づかないことがよくある。そのゲームのおもしろさの入り口にたどり着くまでの説明はあっていいと僕は思っている。ここで「作品自体に語らせるべきだ」というのは乱暴すぎる。

逆育てゲーとしての説明不足とは、「ひと目でわかる」ものと「説明を聞かなければわからないもの」の中間位置で絶妙なバランスをとっているようなものだ。
ゲームは、観る者がその作品のゲームそのものを探すところから始まる。そしてそれを少しずつ理解することで、観る者がそのゲームを学んでいく。

表現とは本来、そのゲームにたどり着くまでの入り口であるはずであり、決してそのゲームのゴールであってはならない、と僕は思うのだが。

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