2016年07月23日
コンセプチュアル・プログラマーとして生きていく
「芸術とは何か?」という問いを芸術作品そのものによって最初に投げかけたのはマルセル・デュシャンであった。
ジョン・ケージは「4分33秒」によって「音楽とは何か?」という問いを投げかけた。
それまでの芸術、音楽の役割であると広く考えられていた「美を追求する」、「美しい音の流れを追求する」という価値観から、芸術自身、音楽自身を芸術、音楽によって切り離す。
それは自己言及的であり、最終の姿でもある。
ジョン・ケージは「4分33秒」によって「音楽とは何か?」という問いを投げかけた。
それまでの芸術、音楽の役割であると広く考えられていた「美を追求する」、「美しい音の流れを追求する」という価値観から、芸術自身、音楽自身を芸術、音楽によって切り離す。
それは自己言及的であり、最終の姿でもある。
つまりそれよりも先は、ない。
ポスト・ポストモダンがなかったように。
そして僕はプログラマーとして、同じことをしようとしている。
コンピューター・プログラムは「何らかの役に立つもの」としてプログラムを設計し、それを制作する。
これは当然のことと考えられている。
職業プログラマーとして、プログラミングを生業にしている僕にとっても、この基本原則をはずすことはない。
だが考えてみれば、プログラムが「何らかの役に立つもの」である必要はあるのだろうか?
プログラムに「より思考を深めるためのゲーム」という役割以外を一切持たせない、ということは悪か?
もちろん、世のプログラムの中には何の役に立たないものはすでにある。
クソゲーと呼ばれるもの、バグだらけのプログラム、処理が遅すぎて使い物にならない、など。
だがそれらには「より思考を深める」という役割さえない。
そういうことを言っているのではない。
下手クソな絵や、どうでもいいような曲もコンセプチュアル・アート以前から存在しただろうが、それらはコンセプチュアルである、とは言わなかったように。
たとえば、「瞑想するコンピューター」(参照:→構想、→作品)
何も出力しない、ということによって、「何らかの役に立つ」プログラムであることを放棄している。
僕はこれを「アート」であるとは思っていない。
「アートではない何ものか」である。
コンセプチュアルなものを作ることをアートや音楽だけに留めていてはならない。
あるいは人工知能。
第3次人工知能ブームと呼ばれる今、世の中は「人工知能が囲碁の名人に勝った」だとか、「Siriがよりそれらしい返しをするようになった」などと言って喜んでいるが、そんなのはどうでもいい。
「人工的」に「知能」を作ろうとすることによって、「知能とは何か?」という問いを追求することで、プログラマーがコンセプチュアルになるチャンスがそこにある。
あるいは人工生命。
人工生命は、「人工知能」という言葉になぞらえて作られた言葉ではあると思われるが、「生命とは何か?」という問いを投げかける以上の役割はなかった。
その技術を応用したもの、というものは現れなかった。
建築学科という作品制作に関わる学科でありながら、工学部という応用学問(=実学)を学ぶ場にいた僕にとって、同じ理系でありながらその学問の応用を第一においていない理学部には憧れがあった。
物理学科や数学科の学生が研究していることは、そのままでは何の役にも立たないもののように見えた。
だからこそ純粋に見えた。
プログラミングや人工知能についても、「理学部的な探求」というベクトルがあってもいい、と僕は思っている。
だから僕はコンセプチュアル・プログラマーとして生きていこう。
(ただし、生業としてのプログラマーのときは別として)
ポスト・ポストモダンがなかったように。
そして僕はプログラマーとして、同じことをしようとしている。
コンピューター・プログラムは「何らかの役に立つもの」としてプログラムを設計し、それを制作する。
これは当然のことと考えられている。
職業プログラマーとして、プログラミングを生業にしている僕にとっても、この基本原則をはずすことはない。
だが考えてみれば、プログラムが「何らかの役に立つもの」である必要はあるのだろうか?
プログラムに「より思考を深めるためのゲーム」という役割以外を一切持たせない、ということは悪か?
もちろん、世のプログラムの中には何の役に立たないものはすでにある。
クソゲーと呼ばれるもの、バグだらけのプログラム、処理が遅すぎて使い物にならない、など。
だがそれらには「より思考を深める」という役割さえない。
そういうことを言っているのではない。
下手クソな絵や、どうでもいいような曲もコンセプチュアル・アート以前から存在しただろうが、それらはコンセプチュアルである、とは言わなかったように。
たとえば、「瞑想するコンピューター」(参照:→構想、→作品)
何も出力しない、ということによって、「何らかの役に立つ」プログラムであることを放棄している。
僕はこれを「アート」であるとは思っていない。
「アートではない何ものか」である。
コンセプチュアルなものを作ることをアートや音楽だけに留めていてはならない。
あるいは人工知能。
第3次人工知能ブームと呼ばれる今、世の中は「人工知能が囲碁の名人に勝った」だとか、「Siriがよりそれらしい返しをするようになった」などと言って喜んでいるが、そんなのはどうでもいい。
「人工的」に「知能」を作ろうとすることによって、「知能とは何か?」という問いを追求することで、プログラマーがコンセプチュアルになるチャンスがそこにある。
あるいは人工生命。
人工生命は、「人工知能」という言葉になぞらえて作られた言葉ではあると思われるが、「生命とは何か?」という問いを投げかける以上の役割はなかった。
その技術を応用したもの、というものは現れなかった。
建築学科という作品制作に関わる学科でありながら、工学部という応用学問(=実学)を学ぶ場にいた僕にとって、同じ理系でありながらその学問の応用を第一においていない理学部には憧れがあった。
物理学科や数学科の学生が研究していることは、そのままでは何の役にも立たないもののように見えた。
だからこそ純粋に見えた。
プログラミングや人工知能についても、「理学部的な探求」というベクトルがあってもいい、と僕は思っている。
だから僕はコンセプチュアル・プログラマーとして生きていこう。
(ただし、生業としてのプログラマーのときは別として)