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2016年08月08日

人工生命:人工知能に疲れた者たちのワンダーランド

どうやら人工知能の研究というものは何らかの目に見える成果を見せることが必要なようである。
囲碁名人に勝つこと。レンブラントの画風を真似た絵を描けること。手書き文字を認識すること。
そのような何らかの目に見える成果を見せることによってそれは「工学」として認められるようになる。

つまり人工知能は最初から実学であることを求められているのである。

広義の人工知能の分野から出てきたテクノロジーに遺伝的アルゴリズムがある。
遺伝的アルゴリズムは無数のパラメータの最適な組み合わせを見つけるための技術で、これも目に見える成果を出すことが可能な技術である。

ところが、その遺伝的アルゴリズムを応用した、目に見える成果が期待できない技術がある。
人工生命だ。 

 

実は人工生命と言っても、そういう技術があるわけではなく、かなり広いものを指している。

タンパク質から生命体を人工的に作り出そうとすることや、自分自身の複製を作ることができるロボットなど、遺伝的アルゴリズムとは関係のないものも含めて広く「人工生命」と呼ばれている。
そしてそのいずれについても、何らかの目に見える成果があるものではない。

タンパク質から作られた人工的な生命体や、自己増殖するロボットができたところで、人類の生活がどう向上するというのだろう?
この何の役にも立たないように見える研究は、だからこそ学問として純粋であり、美しいのである。

そして遺伝的アルゴリズムを応用した、狭義の人工生命についても同じことが言える。
与えられた環境に適応するように進化を繰り返し、そこに生態系を作り出す。
ここで得られる結果は、人類にとって何のメリットもないものなのかもしれない。

あるいは二つの人工知能にコミュニケーションをさせることによって、そこに人工知能どうしの言語が発生することを眺めること。
そこには何らかの文法のようなものが生まれるのだろう。お互いが上手くコミュニケーションすることで共生していくために言語を作り出す、ということはこれも人工生命的である。

人工知能の研究で、目に見える成果を出すことを強いられている研究者たち。
そこで達成した成果は、実は人類にとってはそれほど大きな成果でもなかったりする。もっと純粋な学問への憧れというものもあるだろう。僕が工学部で研究していた頃は、より純粋な学問をやっているように見えた理学部に憧れたものだ。
だけども工学部にもまだまだ逃げ道はあるはず。
人工生命という無駄で純粋な学問と戯れようではないか。 

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myinnerasia at 08:08│Comments(0)コンピューター科学 | 虚構

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