2016年06月30日
映画「宇宙人王さんとの遭遇」
いわゆる「B級映画」の正確な定義を僕は知らないが、「宇宙人王さんとの遭遇」は明らかにB級映画である。
定義はどうであれ、そこに「B級」と呼ぶべき空気が漂っていればそれはB級映画なのである。理屈なんてどうでもいいんだよ、ロケンロール!な言い方で申し訳ないが。
まずそのタイトルにある「王さん」とは「わんさん」と読む。つまり、中国語を話す宇宙人が登場する。もうこの設定ですでにB級映画(ロケンロール!)である。
そして驚くことにこの映画はイタリアで創られたものであり、現代は「L'arrivo di Wang」。王さんと通訳が中国語を話す以外はほぼイタリア語だけ。
YMO「君に、胸キュン。」の歌詞にある「イタリアの映画でも観てるようだね」というくだりにあるイタリア映画への幻想が崩れる。
まず、なぜ地球を訪れた宇宙人が中国語を話すか、ということだが、王さんによれば「地球に来た時に、地球上で最も話されている言葉だったので中国語を選んだ。」ということらしい。なるほどこれは理にかなっている。
なぜ舞台がイタリアなのかはよく分からない。おそらく制作も監督もイタリア人だったのでそうなった、というだけのことであろう。つまり元々イタリア国内向けに創られた映画が世界的に有名になってしまった、ということなのだと思う。
この映画に登場する王さんは、別に「王」という名前ではないのだが、中国語を話すというところから、中国人の象徴として「王」と名付けられ、映画全体としては間接的に中国人を揶揄する、という巧みな方法によって、想定されるであろう中国人からの過剰な反応を回避しようとしている。
地球に来た目的が「地球を征服するため」という疑惑をかけられた王さんは、紳士的な態度で疑惑について答えるが、やがて電気ショックによる拷問にかけられる。
中国語の通訳としてその場に来た主人公は、その拷問に反対をする。
ここで「そもそも宇宙人に人権はあるのか?」というチープなテーマが浮かび上がる。チープだ。あまり深く考えたくないなあ。
そして主人公はその拷問にかけられている王さんを助け出そうとするが。。。まあ裏切られるわな。
この映画は、ヨーロッパ人から見た中国人を遠巻きに描いている。
表面的には紳士的な態度を装っているが、裏で何をたくらんでいるかわからない、そして裏切る中国人。
定義はどうであれ、そこに「B級」と呼ぶべき空気が漂っていればそれはB級映画なのである。理屈なんてどうでもいいんだよ、ロケンロール!な言い方で申し訳ないが。
まずそのタイトルにある「王さん」とは「わんさん」と読む。つまり、中国語を話す宇宙人が登場する。もうこの設定ですでにB級映画(ロケンロール!)である。
そして驚くことにこの映画はイタリアで創られたものであり、現代は「L'arrivo di Wang」。王さんと通訳が中国語を話す以外はほぼイタリア語だけ。
YMO「君に、胸キュン。」の歌詞にある「イタリアの映画でも観てるようだね」というくだりにあるイタリア映画への幻想が崩れる。
まず、なぜ地球を訪れた宇宙人が中国語を話すか、ということだが、王さんによれば「地球に来た時に、地球上で最も話されている言葉だったので中国語を選んだ。」ということらしい。なるほどこれは理にかなっている。
なぜ舞台がイタリアなのかはよく分からない。おそらく制作も監督もイタリア人だったのでそうなった、というだけのことであろう。つまり元々イタリア国内向けに創られた映画が世界的に有名になってしまった、ということなのだと思う。
この映画に登場する王さんは、別に「王」という名前ではないのだが、中国語を話すというところから、中国人の象徴として「王」と名付けられ、映画全体としては間接的に中国人を揶揄する、という巧みな方法によって、想定されるであろう中国人からの過剰な反応を回避しようとしている。
地球に来た目的が「地球を征服するため」という疑惑をかけられた王さんは、紳士的な態度で疑惑について答えるが、やがて電気ショックによる拷問にかけられる。
中国語の通訳としてその場に来た主人公は、その拷問に反対をする。
ここで「そもそも宇宙人に人権はあるのか?」というチープなテーマが浮かび上がる。チープだ。あまり深く考えたくないなあ。
そして主人公はその拷問にかけられている王さんを助け出そうとするが。。。まあ裏切られるわな。
この映画は、ヨーロッパ人から見た中国人を遠巻きに描いている。
表面的には紳士的な態度を装っているが、裏で何をたくらんでいるかわからない、そして裏切る中国人。