「ニセ科学」などと言ってしまうのであれば「人工知能美学芸術」という言葉から「知能」を外してみよう、という試み

2016年08月16日

第2回AI美芸研を傍観して

前回のAI美芸研に続いて、8月6日に行われた第2回AI美芸研にも参加してきた。
今回は松田卓也先生を招いて、「迫り来るシンギュラリティ」という講演がメインであった。

前回に引き続き、野次馬以上恋人未満という立場でのぞきに行ったのだが、正直なところ僕はシンギュラリティそのものについてはそれほど興味がなく、むしろ中ザワヒデキが松田先生を招いてシンギュラリティの話をしてもらう、ということそのものに興味があった。

前回も書いた通り、中ザワは「人工知能美学宣言」を自らの芸術的パフォーマンスとして行っており、そこから派生するさまざまな出来事を期待しているように見える。
第2回AI美芸研は松田先生の講演がメインと見えるが、その前に前座的に行われた中ザワ自身による「AI美芸研のアジェンダ」こそ意義のあるものだった。
 

中ザワが何度も繰り返し語る「人間が行う美学ー機械が行う美学」と「人間が行う芸術ー機械が行う芸術」の二軸からなるクワドラントについて改めて詳細な説明がなされた。
人工知能美学芸術宣言、およびこのAI美芸研で問題とするのは「Dの領域」すなわち、「機械が行う美学-に照らして-機械が行う芸術」である、ということ。
このことを中ザワはこれからも繰り返し言い続けるのであろう。

松田先生の講演の後に行われた自由討論の中で、松田先生が考える「美学」と中ザワヒデキがここで言っている「美学」というものが微妙にずれていて話が噛み合わなくなっているところが野次馬としては何とも面白かった。
中ザワはこういう「ずれ」も含めたあらゆる事件がありうることも想定し、それらをすべて取り込むことで自らの芸術作品としてのパフォーマンスを演じているように見える。

Dの領域を実現するのであれば、そういった「メタ美学」的なものをも「美学」に含めなければならない。

中ザワがDの領域を語るときには、単に「『美しさ』の評価関数を機械が自ら作り出せるか?」ということを言っているのではないことをどれだけの人が理解しているのだろうか?
真の意味でのDの領域を目指すのであれば、レンブラントを模倣するAIではなく、マルセル・デュシャンを作り出す必要がある。

マルセル・デュシャンを模倣するのではない。
マルセル・デュシャンが世界を驚かせたような事件を起こすものを創りだすのである。

今の僕たちには想像がつかないような大転換。
僕たちにはその評価関数を評価することはできないだろう。あるいは僕たちに評価できるようなレベルのものであってはならない。
それを成し得て初めて「シンギュラリティ」と呼べるのではないだろうか? 

そういうものをこそ「シンギュラリティ」と呼ぶのであれば、僕は先程「シンギュラリティにはそれほど興味がない」と書いたことを撤回する。すみませんでしたー。 

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「ニセ科学」などと言ってしまうのであれば「人工知能美学芸術」という言葉から「知能」を外してみよう、という試み