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2016年10月17日

第3回AI美芸研を傍観して

第1回第2回に続き、第3回人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)に参加してきた。
「参加してきた」とは言うものの今回もこれまでと同様、野次馬以上恋人未満という立場で傍観してきた、という感じだ。

今回は中ザワヒデキによる「循環史観とAI反芸術」という濃い〜い話から始まり、続いて三宅陽一郎の「人工知能に、人工的な美を追求させることは如何にして可能か?」という、ゲーム制作の立場から見たAIについての話、そして斉藤環による「"意味"がわからないAIのために」という、精神科医の立場からのAI批判と続いた。

それぞれの細かい内容は省くとして、ここでは僕の感想をさらっと書いておこうと思う。
 

三宅、斉藤という豪華なゲスト登壇者は、ともに「身体」の問題を扱っていた。
つまり、真の意味でのAIを実現するためには、フレームをみずから設定できる、ということが必須で、そのフレームの起源は「身体」におくべきだ、ということを二人ともが言っていたことがおもしろい。
これはあらかじめ打ち合わせたわけではなく、偶然同じようなことを話すための資料を準備をしていたということで、それに沿って話した、ということである。

これらの話を聴いていて、僕がAIブームにいまいち乗れない理由がなんとなく分かったような気がした。
僕は基本的にAIに関する話題を唯物論的に捉えようとしていないんだな。

「人工知能」について話すときにはまず「知能とは何か?」から始めるべきである、ということを僕はずっと言い続けてきたはずなのだが、そもそもAIの話題について語る人たちは、どうやら「知能」というものが「脳」というハードウェアの上に載っているソフトウェアをイメージして話しているらしい、ということに気づいた。

僕は「知能」というものを「人工的に」実現しようというのであれば、それは唯物論的に(あるいは還元主義的に?)脳の研究をしてそこからそれを再現する、という必要はあまりないと考えていて、たとえば「思考」と同じような振る舞いをするより抽象的なものを人工的に創りだすことができるのであればそれを「人工知能」と呼んでしまっていいと考えている。

なので、僕は「強いAI/弱いAI」という議論にもあまり興味がない。
限定された問題しか対応できない「弱いAI」であっても、それが「知能」と考えられるものであるのであれば、それを人工知能と認めてよいと思っている。

ここで僕が「抽象的」と言っているのは、コンピューター上で動くだけ、あるいはアルゴリズムがあるだけの思考実験さえをも含んでいいと思っている。
要するに僕は「知能」というものをメタロジカルなものとして考えていた。だから世のAIの話がしっくり来なかった。
何らかの目に見える成果のための研究というものは、メタロジカルな空論で終わってはならない、という気持ちは分かるが、僕はAIの話題なんてそもそも空論でいいのではとさえ思っている。
(実は中ザワヒデキもそう考えているんだろうな、と僕はうすうす思っているのだが)

さて、「フレームの起源を身体におく」という発想は、人工知能が自律的にフレームを規定するというよりどころとしては有効であろうが、それを唯物論的に扱うのであればそれは「身体」ではなく、さらに下位層の「物質」にまで還元して、ニュートン力学に基づくフレーム、というレベルまで考えてもいいのではないだろうか?
そうすることで、「知能」だけではなく、「身体」までもが抽象化されたものになる。

物質レベルから構築される抽象化された身体というものは、僕たちが思い描く「身体」とはまったく異なったものになるかもしれない。おそらく今の僕たちが想像もできないような概念としての身体。
そこからさらにそれを起源とする「知能」というものをつくり上げるのであれば、それはもはやまったくわけのわからないものになるのだろう。そしてその先にはさらにわけがわからない、「人工知能によって創られた芸術」というものが現れるのである。

中ザワヒデキはそういう光景を夢見ているのだろう。 
あるいはそういう光景が現れる瞬間を、中ザワは「シンギュラリティー」と呼んでいるのかも知れない。 

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