つっかえ棒ふたたび、説明不足であることについて

2016年10月22日

表現することに逃げるというどうしようもない弱さと強くあることについて

ハリボテだとかつっかえ棒だとかにたとえて、僕が「創ることについて」思っていることをダラダラと書いてみたが、要するに僕は、「見せるために創る」ということにあまり興味がないんだな、と気づいた。
「見せること」を第一に考えたものだからこそ、「ハリボテ」というテクニックは効果的な技術であろうし、「見せること」に影響を与えないのであれば、その場しのぎの「つっかえ棒」は大した問題ではないのかもしれない。
でも僕がものを創るときには、「見せること」よりもまず、その作品の本質こそを大切にしたい、と考えている。

なので4Kだの8Kだのの超高精細画像にもあまり興味がないし、映像の凄さをウリにしている最近のゲームにもあまり興味はない。



僕は自分をアーティストだとは思っていない。
物書きでもないし、批評家でもない。
とにかく、「何かを表現する人」というのとは違うような気がしている。

「何かを表現する」とは、つまりは「見せること」を第一に置く必要があるのだろう。

よく「言葉ではなくて『作品』に語らせよ」というような言葉が聞かれるが、僕は作品に語らせる必要はない、と考えている。
たとえば視覚芸術で言えば、視覚に訴えることだけで観る者に伝わるものごとなどたかが知れている。
「作者が語らなければ伝わらないような作品はダメだ」などと言う人は、一見厳しいことを言っているように聞こえるが、実際は視覚だけで伝わる程度のコンセプトしか想定していない「弱い人」である。

「言葉以外で何かを表現する人」というのは、一般的には五感のうちのいずれかに訴えかける表現をする人、ということになるわけだが、それはつまりは観る者の身体感覚に頼っていることになる。
言葉にとって身体はかなり下位の層、言い換えれば原始的な層である。その原始的な層を通してものごとを正しく伝える、ということができるためには、そこで送られる「ものごと」がかなり原始的なものである必要がある。

その程度のものごとを「表現する」ということは、「表現する」ということが神格化されていることに逃げているだけの「弱い人」で、その弱さを自分の中で正当化するために「作品に語らせる」などと言っているだけだ。
あるいは「表現そのもの」だけが先走りしていて、そこで「表現されるもの」がざおなり("おざなり"なのか"なおざり"なのかよくわからないので。。。)になってしまっているようなものが多すぎる。
その世界はそれで完結しているから何も悪いわけではないのだが。僕は興味がない。

それよりもむしろ身体感覚に頼った表現をすることを放棄し、そこで伝えられる「ものごと」を正しく伝えることに重きをおく文学やコンセプチュアル・アートに携わる人は「強い人」である。

あるいは作品と作家を切り離すというラディカリズムを実践する覆面作家。 
あるいは4分33秒的なるもの

これらについては、語られなければならないし、作者は自ら語るべきである。
語ることができない作品は、あるいは作者は、強くない。 

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