2016年07月04日
覆面作家、という説明不足、という逆育てゲー
沼正三、バンクシー、写楽。
この三者の共通点は、いずれも「覆面作家」であり、その正体が明らかにされていない、ということである。
特に苦悩系アーティストに見られる傾向であるが、自らが創った作品を作者と結びつける、という欲求は、それ自体が制作のモティベーションになっている。
それは「作家の作風」だとか「独特なマチエール」などの言葉にも表れているように、作家と作品の結びつきというものが、創る者にとってだけではなく、鑑賞者にとっても関心事になっている。
その「作家と作品の結びつき」というアートにとっての当然のルールとされてきたものをあっさりと破壊するのが「覆面作家」である。
自らの正体を明かすことなく作品を世に送り続けること。
これは作品から作家というものを切り離すというラディカリズムの実践である。
自らの顔を一般に明かすことはなく、覆面を着けてしか登場しないちきりんは、上記の意味での「覆面作家」とは言えない。彼女のブログ記事や著作などは、あきらかに「ちきりん」という個人と強く結びつき、ブランドとして成り立っている以上、作者と作品を切り離す、というラディカリズムはない。
覆面作家にとって、自らの作品を自分自身と切り離すというラディカリズムのモティベーションは、それらが愉快()犯である、というところにある。
作品の作者が不明なまま世に送り出され、それがある一定の評価を受ける。そして「それらを創ったのは誰なのか?」という謎までもが鑑賞者にとっての楽しみになっている、という愉快な犯。
本来、アート作品、文学作品などの創作物は、それを創ったのは誰か、ということがその作品にとっての重要な情報である。
その重要な情報を消し去ってしまうこと。これは説明不足であり、逆育てゲーである。
この三者の共通点は、いずれも「覆面作家」であり、その正体が明らかにされていない、ということである。
特に苦悩系アーティストに見られる傾向であるが、自らが創った作品を作者と結びつける、という欲求は、それ自体が制作のモティベーションになっている。
それは「作家の作風」だとか「独特なマチエール」などの言葉にも表れているように、作家と作品の結びつきというものが、創る者にとってだけではなく、鑑賞者にとっても関心事になっている。
その「作家と作品の結びつき」というアートにとっての当然のルールとされてきたものをあっさりと破壊するのが「覆面作家」である。
自らの正体を明かすことなく作品を世に送り続けること。
これは作品から作家というものを切り離すというラディカリズムの実践である。
自らの顔を一般に明かすことはなく、覆面を着けてしか登場しないちきりんは、上記の意味での「覆面作家」とは言えない。彼女のブログ記事や著作などは、あきらかに「ちきりん」という個人と強く結びつき、ブランドとして成り立っている以上、作者と作品を切り離す、というラディカリズムはない。
覆面作家にとって、自らの作品を自分自身と切り離すというラディカリズムのモティベーションは、それらが愉快()犯である、というところにある。
作品の作者が不明なまま世に送り出され、それがある一定の評価を受ける。そして「それらを創ったのは誰なのか?」という謎までもが鑑賞者にとっての楽しみになっている、という愉快な犯。
本来、アート作品、文学作品などの創作物は、それを創ったのは誰か、ということがその作品にとっての重要な情報である。
その重要な情報を消し去ってしまうこと。これは説明不足であり、逆育てゲーである。