ふたたび、説明不足であることについて美しいコード

2016年10月24日

解釈は観る人に委ねます

府中市美術館で行われた、横尾忠則の公開制作を観に行った。
今見てみたら、もう5年前だったんだなあ。時蝿は矢を好む。

公開制作では、僕が大好きな「Y字路」シリーズを何枚か描くところが見られた。あの名シリーズができるところに立ち会うことができて、なんとも至福の時を過ごせた。

そのY字路シリーズで描かれる家に、"450"という番地と思える数字を何度か描くことがあった。僕はすぐに「ヨコオ」の語呂合わせだと気づいて、そのユーモアにニヤッと笑ってしまったのだが、そのあとに"4503"とした時には本当に吹き出しそうになった。自分に"さん”をつけてるよー、と。

公開制作の最後に、横尾忠則本人からの挨拶と、観客からの質問に答える、というのがあった。サービス満点である。
そのときにある女性が、「ところどころに"450"という数字が出てきましたが、何か意味があるのですか?」と尋ねていた。僕は「おいおい、気づかない人がいるのかー」とびっくりしたのだが、そのときの横尾の回答がまた良かった。

「それはご想像にお任せします」
 

作品に本質からは外れたところで遊びを含ませることは、それもまたゲームである。
そのゲームの答えを求められた時に簡単にその答えを教えるのではなく、「ご想像にお任せします」ということは、逆育てゲーとしての説明不足である。

"450"が"ヨコオ"となっている、という分かりやすいなぞなぞの答えを簡単に答えてしまってはならない。
これは、説明しなければ伝わらないほどのレベルのものではないのだから、ちょっとぐらい考えることを楽しんでもらおう。
これは、「作品に語らせる」ということで作品の本質を言葉で語ることを避けていることとは大きく異なる。

一方で、抽象絵画などに多いのだが、作品にどういう意味があるのかを尋ねられた時に、「解釈は観る人に委ねます」などという人がいる。
「観る人に委ねる」とは、観る人が作品と対峙する中で、それを自分の問題と照らし合わすことで作品に無数の意味が生じる、ということを期待しているのだろう。
これは「作品に語らせる」ということや「逆育てゲーとしての説明不足」とは逆のベクトルで、作品から何かが現れてくるのではなく、それを観る人から個人的な問題が現れてくる、というものだろう。

だけど僕はそういう作品が嫌いだ。
というよりも、「解釈は観る人に委ねます」などと言う人が嫌いだ。

解釈を観る人に委ねるのであれば、最初から創らなければいい。
鏡でも置いておけばいい。

作品を鑑賞する、ということは、作者と観る者とのゲームであるべきで、そのゲームは作者あるいは作品の側からの先攻であるべきだ。

その作品で何らかの概念を伝えようとすることから始まり、それを受けた鑑賞者が勝手に自分の問題に置き換えて勝手に感動する、ということはあり得るかも知れない。これは観る者の勝手であって、それを「観る人に委ねます」というのであればわかる。伝えようとしたことが上手く伝わらなかった、あるいは別の個人的な問題を誘発して、その人にだけ別の解釈が生じた、ということである。実は僕もよくそういうことがある。
それはゲームとしてはおもしろい展開である。

だが最初から「解釈は観る人に委ねます」というのは、作品が先攻になる、ということを放棄していることになる。

一方で、そういう意図を前面に出したものであるというのであればそれはひとつのジャンルであろう。
ブライアン・イーノの環境音楽はまさにそういうジャンルのものだ。 
「インテリアとしての意味しかない」ということを前面に出すことで、作家性を放棄するというラディカリズム。
解釈したければ勝手に解釈すればいいし、ただ聞き流していてもいい。なぜなら何も伝えようとしていないのだから、というメタ・ゲーム。

だが、作品の意味を聞かれた時に初めて「解釈は観る人に委ねます」などと言う人にはそのラディカリズムは見られない。ただ、説明をサボっているだけのことである。 

なんだかいつにも増して支離滅裂な文を書いてしまったような気もするが、、、 

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myinnerasia at 08:09│Comments(0)創ることについて 

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