2016年07月15日
4分33秒的なるもの
ジョン・ケージの「4分33秒」は、第一楽章から第三楽章までの三楽章構成となっており、そのいずれの楽章も「休止」のみで構成されている。つまりその演奏時間である4分33秒間、「無音」が続く。
これはCDにもなっているし、他の様々なジャンルのミュージシャンによって数々の「カバー・バージョン」が出ている。
中には「デスメタル・バージョン」などもあって、悪ノリ感は否めないものであるが。。。
ジョン・ケージはこの曲によって、「無音」というものを追求したかったらしい。
彼が昔、無音を経験したくて無音室に入ったが、無音になるはずのその部屋の中で、本当はないはずの高い音と低い音の二つが聴こえてしまったらしい。それは神経系の音(高いほう)と血流の音(低いほう)と説明されたそうだが、つまり人間が生きている間は無音は存在しない、と結論づけたそうだ。
つまりジョン・ケージは、「4分33秒」において形而上の「無音」を追求したことになる。
ミニマリズムといわれるアートの一派は、その作品を作品とする最少の要素まで絞り込む、というラディカリズムを実践したが、その究極の答えは「何もしないこと」である。
つまり、キャンバスに何も手を加えずに、白いままにしておく。これでかなり「4分33秒」に近づくことができている。
さらには覆面作家になることで作品と作者を切り離す。
これを極めるのであれば、「アーティストでさえない」、「アートでさえない」というところまで行きつく。
つまり、ミニマリズムはその自己言及性のために、無限地獄に陥り、最終的には「無」というところに落ち着くことになる。
中ザワヒデキが、中ザワヒデキ展「ソースと実行」で、その告知ページのトップにもしている作品、「ソースと実行第四番」は、HTMLで書かれた「何も表示しない」作品である。
「4分33秒」は、「無音」でありながら、実際に演奏会で「演奏」された。楽譜も存在した。
それと同じく、「ソースと実行第四番」は、何も表示しないものでありながら、(何も表示しないための)ソースが存在する。
つまり「ソースと実行第四番」は「4分33秒的なるもの」である。
マルセル・デュシャンはレディメイドというラディカリズムにおいて、作者が手を加えていないものをその作者の作品とすることで、作品と作者を切り離す、ということを行った。
だが依然そこには目に見ることができる「実体」が存在する。
それに対して「4分33秒的なるもの」については、「実体」は存在しない。
音楽でありながら一切音を鳴らさないこと。作品でありながら何も表示しないこと。
これは、「作品から作品性を切り離す」というラディカリズムの究極である。
中には「デスメタル・バージョン」などもあって、悪ノリ感は否めないものであるが。。。
ジョン・ケージはこの曲によって、「無音」というものを追求したかったらしい。
彼が昔、無音を経験したくて無音室に入ったが、無音になるはずのその部屋の中で、本当はないはずの高い音と低い音の二つが聴こえてしまったらしい。それは神経系の音(高いほう)と血流の音(低いほう)と説明されたそうだが、つまり人間が生きている間は無音は存在しない、と結論づけたそうだ。
つまりジョン・ケージは、「4分33秒」において形而上の「無音」を追求したことになる。
ミニマリズムといわれるアートの一派は、その作品を作品とする最少の要素まで絞り込む、というラディカリズムを実践したが、その究極の答えは「何もしないこと」である。
つまり、キャンバスに何も手を加えずに、白いままにしておく。これでかなり「4分33秒」に近づくことができている。
さらには覆面作家になることで作品と作者を切り離す。
これを極めるのであれば、「アーティストでさえない」、「アートでさえない」というところまで行きつく。
つまり、ミニマリズムはその自己言及性のために、無限地獄に陥り、最終的には「無」というところに落ち着くことになる。
中ザワヒデキが、中ザワヒデキ展「ソースと実行」で、その告知ページのトップにもしている作品、「ソースと実行第四番」は、HTMLで書かれた「何も表示しない」作品である。
「4分33秒」は、「無音」でありながら、実際に演奏会で「演奏」された。楽譜も存在した。
それと同じく、「ソースと実行第四番」は、何も表示しないものでありながら、(何も表示しないための)ソースが存在する。
つまり「ソースと実行第四番」は「4分33秒的なるもの」である。
マルセル・デュシャンはレディメイドというラディカリズムにおいて、作者が手を加えていないものをその作者の作品とすることで、作品と作者を切り離す、ということを行った。
だが依然そこには目に見ることができる「実体」が存在する。
それに対して「4分33秒的なるもの」については、「実体」は存在しない。
音楽でありながら一切音を鳴らさないこと。作品でありながら何も表示しないこと。
これは、「作品から作品性を切り離す」というラディカリズムの究極である。