2016年05月

2016年05月31日

僕がiPhoneを初めて買ったのは3だった。
確かiPhone3が日本で初めて販売されたiPhoneだったと思う。
初めてその箱を開いたときに、説明書を探したのだが、みつからない。

新しい物を買ったときに、僕はあまり説明書を読まずにいじり始めることが多いのだが、
説明書が入っていないのはそれなりに心細くなるものだ。
そしてやがて、iPhoneについては説明書を見なくてもいじっているうちに使い方が分かる、
ということに気付いた。
というよりも、「説明書がなくても使い方が分かるほどシンプルな操作性」というコンセプトで
デザインされたもの。僕は別にApple信者ではないが、Appleの製品にはいつもそういう
考えぬかれたコンセプトを感じさせられて参りましたーになる。

そしてiPhoneのそういうコンセプトを追うかのように、以降、世に送り出される他社製品も
説明書をつけないものが増えてきた。そのコンセプトまでを理解した上で、どこまでそれを
徹底させているかが見ものである。

買ったばかりのものに説明書がついていない場合、それを使うものは単に「便利なもの」を
新しく手に入れたというだけではなく、「好奇心を刺激する新しいおもちゃ」を与えられた
ことになる。
説明も何もないまま、ボタンを押してみてどういう動きをするのか。長押ししてみたり。2回
押してみたり。。。
そして脳が学習し、やがて使いこなせる道具(=からだの拡張としての)になる。

つまり、説明書のない買ったばかりのものは、それを使う人が育てられる「逆育てゲー」だ。 
Appleはおそらくそこまでを意図して、世の中にあたらしいおもちゃを与えたんだろう。

説明不足はそこにゲームを産み出す。逆育てゲーというゲーム。
Dismalandはネットでチケットを買う際にも不親切で、自分であれやこれやして、チケットが
販売される日時とどこで買うことができるのかを調べる必要があった。
また、会場内ではトイレの場所を聞いても教えてくれない。無視される。
Dismalandの場合はAppleと違って、「説明書がなくても使い方がわかるほどシンプル」を
目指したものではなく、説明不足であるために育てられることの楽しさを演出したものだと
言えるだろう。意図してのことなのかどうかは別として。


myinnerasia at 06:13|Permalinkアジア | 逆育てゲー

2016年05月30日

意外に思われるのだが、僕はあまりゲームをしない。 
昔、プレステのあるゲームにはまろうとしてみたのだが、そのゲームは新しいバージョンが出るたびに
どんどんすごいCGになっていって、誰もが「おお!すごい!リアル!」などと喜んでいたものだが、僕は
それを全然リアルであるとは感じられず、ゲーム自体のおもしろさもどんどんなくなっていったように
感じた。そしてそのすごいCGのゲームに追従するように他のゲームもどんどんCGに力を入れるよう
になり、ゲーム自体のおもしろさよりも画のすごさを競うようになっていった。

そこで僕は完全に醒めてしまった。

「リアルであること」とは、CGで描いた世界が実際の世界にどれだけ似ているか、ということではない。
むしろ現実の世界には見えないものから脳の中に虚像を描く鑑賞者(=ゲームをする人)の行為そのもの
こそがリアルなのだ。
つまり、リアルと虚構は同義である。 

小説を読んでいて、その描写の巧みさにどんどんのめり込んでいるうちに、文字を追っているだけ
なのに、頭の中に情景が浮かぶこと。
木片に文字が書かれただけの駒を武将と見立てて戦略を立てること。
画面が荒く、白黒の古い映画を見て、物語に引きこまれていくこと。

画素数が爆発的に増えていくことでリアルを追求する、という現代の方向はあきらかに間違っている。
そんなところにはリアルはない。ただそれを開発している技術者の興味と意地を満たしているだけである。

「4Kの次は8Kでヤンスよ。いっひっひ」

技術が数字を追うようになったら、そこには絶望しかない。 

myinnerasia at 05:59|Permalinkゲスでヤンス 

2016年05月29日

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Dismalandはバンクシーが2015年に5週間だけの期間限定でイギリスでやっていたテーマパークだ。
僕は幸いなことにこの期間中にオランダに行っていたので、ちょっと足を伸ばして一泊二日で行ってきた。

この名前はもちろんディズニーランドをもじったものだが、"dismal"という英単語は"憂鬱"という意味らしく、
その内容もディズニーランドを徹底的に皮肉ったものだった。
そして、(本家のディズニーランドと同じく)、徹底的に虚構を作り上げている。

まず、インターネットでチケットを予約するのだが、これがかなりの人気のうえ、何日かに一度(何日だった
かは失念。。。)の決められた時間しかチケットの販売がないので、かなりの争奪戦になる。
さらに、そのチケット販売サイトからチケットを買う方法が不案内すぎてわかりづらい。
これは全部わざとやっていることだと思われる。テーマの"憂鬱"はもうチケット争奪戦から始まっている。

開催されていたのは、ロンドンから特急電車で2時間ぐらいかかるウェストンスーパーメアという小さな
街なのだが、駅に着いても何の表示もない。普通、こういう催し物は大々的に案内表示などがある、と
思うのだが、そこも当然dismal。
地面に下記のような表示だけがあったとさ。

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そして到着。
そこには当日券待ちの長い列が。4時間待ちとのこと。
僕はインターネットで憂鬱な思いをしながらGETした前売りチケットがあったので、
その長い列とは違う、方へ。前売りチケットは入場日時が決められている。
前売りチケットの入り口にもその入場時間待ちの列があることはあるのだが、そんなに並ぶ
はずはない。
。。。はずなのに、なぜかこちら側だけ、行列用のレーンがあり、しかも無駄に長い。
前売りチケットで来た人は、誰も並んでいないこのレーンを延々と歩かされる。なぜかみんな
ニヤニヤと笑いながらなのだが。

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肝心の中身については、、、バンクシーやダミアンハースとなどの現代アート好きには
たまらない内容だった。
ただ、そこに展示されている作品よりも、このDismaland全体が作り上げている虚構が
なんとも面白かった。 全てにおいて徹底的。
その徹底している度合いは本家ディズニーランドに負けない。

ミッキーマウスのような耳を付けた係員は皆憂鬱な顔をしていて、トイレはどこかと聞いても
教えてくれない。
アトラクションはどれも古く薄汚く見えるように作られている。
ビーチやプールサイドにあるような折りたたみベッドがところどころに置かれているのだが、
陽に焼けて色あせている。
館内にずっと流れ続ける古臭い音のハワイアン。時々そのハワイアンがブチッと止められて、
子供の声で館内アナウンスのようなものが流れるのだが、それをよく聞いてみると、
ジェニー・ホルツァーっぽいことを言っている。(後で調べたら、やっぱりジェニー・ホルツァー
だったようだ。オレすげえ)
それも時々は館内放送が始まるようにハワイアンが途切れてブチッとマイクのノイズがあるの
だが、何事もなかったのようにまたハワイアンに戻ったり。これはあるあるネタっぽかった。

とにかく全体で憂鬱をテーマに虚構を作り上げている、ということと、本家ディズニーランドを
徹底的に皮肉っている、ということで、その虚構性を笑っている、という二重構造になっていた。

最後に出口のところには、こんな皮肉が。。。(「出口はおみやげ売り場を通った向こう側」) 
最後まで徹底している。

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myinnerasia at 09:02|Permalinkピキピキ | 虚構

2016年05月27日

ジョージ・オーウェル「1984」について、それを全体主義の悪夢を描いている、とだけ捉えること
は明らかに間違っている。それは表面的な読書であって、この小説のおもしろさが全然わかっていない。

1984は、文学でもなく、ゲームでもなく、ましてやアートでもないなにものか、である。

ニュースピークという新言語。ダブルシンクという思考法。オセアニア、ユーラシア、イースタシアという
大国がある世界。
確かにその舞台であるオセアニアは、ビッグブラザーに独裁され、国民の思想を徹底的に操作する
ための恐怖政治が描かれているが、これは恐怖政治の恐怖そのものを描いているのではなく、
恐怖政治のために虚構が積み重ねられていく、という、現代の文学やアートでもテーマとして成立しうる
問題がテーマになっている、ということに気づく。

まず、オセアニアは本当にユーラシアと戦争をしているのかどうかがわからない。国民には毎日その
戦果が放送され、国民は各地での勝利に狂喜する(ふりをする)のだが、戦闘のシーンはない。
また、反革命分子の指導者として、国全体の敵として宣伝されているゴールドシュタインが本当に
実在するのかもわからない。

それよりも何よりも、オセアニアの指導者(独裁者)、ビッグブラザーが本当に実在するのかどうか
さえ分からない。街中に貼られている「BIGBROTHER IS WATCHING YOU(ビッグブラザーは
いつもあなたを見ている)」のさえ、本当なのかどうかはわからない。

すべてが虚構の上に成り立っている。

つまりこの物語は、読者に虚構としての作品を展開するだけではなく、その物語中の登場人物(国民)
たちにも虚構を布いている。

虚構によって虚構を描く。
ピキピキくる作品である。 


myinnerasia at 07:03|Permalinkピキピキ | 虚構

2016年05月26日

筒井康隆について語ることは危険だ。
特にそんなにたくさん読んだわけでもない僕なんかがヘタなことを言おうものなら、本物の
ツツイストたちにどんなことを言われるかわからない。
先に白状しておくが、僕は筒井康隆をそんなに読んだわけではない。

ただ言えることは、ツツイストたちも僕も、筒井康隆について語ってはならない、ということだ。
語ってはならない、という以前にその構造上、語ることが不可能である。

筒井康隆について語ることは、次の例に似ている。
僕たちプログラマーの中では何らかのかたちで普通に関わることになる"GNU"というプロジェクトがある。
このGNUというプロジェクト名は何の頭文字を取ったものか、というと、、、

 GNU is Not Unix.

である。
ではこの文の主語である"GNU"とは?と考えると、、、

  GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix.
  GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.
  GNU(GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.

  ...

となり、無限地獄に陥ることになる。
"G"が何の頭文字なのかはわからない。

筒井康隆について語ることは、これと同じだ。

筒井康隆は、「着想の技術」の中で、小説の虚構性について徹底的に分析している。
「虚構」をテーマにしてきた筒井康隆にとって、それを分析したものを発表する行為自体の
メタフィクション性について語ることは、上記の理由のとおり不可能である。
ただ、「虚構」について深く考えようと思うのであれば、たとえば唯野教授の授業を
受けているつもりで現代思想を学ぼう、というつもりで「文学部唯野教授」を読む、、というものと
同じ態度で、「着想の技術」 を読んでみることはアリ。

そういう読み方が正しい。

「虚構」というテーマは、筒井康隆やその他のメタ・フィクション文学だけのものではなく、
現代において作品を創るときには外せないテーマのはずで、90年代あたりの現代アートでも
そこが一番のテーマであった。そして、一度それをテーマにしてしまうと、その無限地獄からは
逃れることはできなくなり、 未だに現代アートのテーマとして根底にあるものになっている。

、、、などと書いてみることも馬鹿げたことで、そもそも「アート」というもの自体が虚構であって、
その虚構性を暴いたのがマルセル・デュシャンであったとするなら、その虚構性を再構築しようと
する試みが90年代以降の現代アートの位置づけである。

僕が表したいなにものかについて、「ましてやアートでもないなにものか」 としか言いようがないのは、
その虚構性に気づかないままに飲み込まれ、その虚構の中で虚構性の再構築に加担している、
と思いたくない、という気持ちがあるからかも知れない。まだまだ未熟者だ。
その点、さすがに筒井康隆はそういうところはとっくに乗り越えたところから「着想の技術」を書いている。

やっぱり筒井康隆については語ってはならない。 


myinnerasia at 06:00|Permalinkピキピキ | 虚構