2016年06月
2016年06月30日
ダジャレと並んでレベルの低い笑いとされる、「下ネタ」について。
「下ネタ」の定義は、排泄に関することを笑いにするものと、性に関することを笑いにするものの2種類があるが、日本での「下ネタ」という言葉は元々は前者を指すものだったらしい。
下ネタを嫌う、あるいは意図的に避ける、 というお笑いの人は結構いる。
日本の古典芸能である落語においても下ネタはしばしば出てくることがあるのだが、三平一門では下ネタはタブーである。また、萩本欽一と欽ちゃんファミリーにおいても下ネタはタブーとされている。
「関西は笑いのためには手段を選ばないが、江戸は粋の文化であるから下ネタは嫌われる」というが、色艶をあつかった都々逸は粋であると思うのだがどうなんだろう?関西人の僕にはそのあたりはわからないなあ。
萩本欽一については、意図してか結果としてそうなったかは別として、「国民的な笑い」の象徴であるから、下ネタがご法度であるというのは頷ける。
だが、だからこそ欽ちゃんはおもしろくない。
さて表題にもある、下ネタの何がおもしろいのか、ということだが、これはダジャレと同様、謎である。
一般的に排泄、性に関する話題は公衆の面前ではタブーとされている。
すぐに思いつく「下ネタがおもしろい理由」としては、そのタブーを犯すことがおもしろい、ということである。
これは確かにある。
その場での笑いをとるために、過去に自分が犯した、自分ではそれほど大したことはない、と思っていた犯罪について話してしまったために芸能人人生を棒に振った芸能人が結構いる。
下ネタで語られる内容はタブーではありながら、それを犯すこと自体は犯罪にはなっていない。なので笑いとして成立する。
下ネタを具体的に笑い、しかも高度な笑いにしている例として僕がすぐに浮かぶのは伊集院光である。
伊集院光の高度な下ネタは、「笑いのためには手段を選ばない」関西での下ネタとは異なり、「(笑)い」と呼ぶべきものである。
伊集院光の下ネタについて考えると、いわゆる下ネタというものが単にタブーを犯すことだけで笑いを誘うものではないことに気づく。
それは「自虐性の笑い」と「あるあるネタ」である。
伊集院光の下ネタは基本的に自虐的である。
自分が短小で仮性包茎であること、ときどきウンコを漏らすこと、特殊な性的趣味を持っていること、ということで他者よりも劣っている、ということを笑いにする。
下ネタというものが、排泄、性に関するものである、ということはつまりはプライベートな問題で、普段は他人とは共有することのないものである。
他人と共有することがない個人的な場においての現象に共通性があるとすれば、それはあるあるネタになる。
つまり、「誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なこと」をネタにしていることになる。
タブーを犯すことで笑いを誘いながらも、それは自虐的であり、誰もが薄々気づいているがまだ意識上に野持っていない微妙なことを見せてくれる。
だから下ネタはおもしろい。
「下ネタ」の定義は、排泄に関することを笑いにするものと、性に関することを笑いにするものの2種類があるが、日本での「下ネタ」という言葉は元々は前者を指すものだったらしい。
下ネタを嫌う、あるいは意図的に避ける、 というお笑いの人は結構いる。
日本の古典芸能である落語においても下ネタはしばしば出てくることがあるのだが、三平一門では下ネタはタブーである。また、萩本欽一と欽ちゃんファミリーにおいても下ネタはタブーとされている。
「関西は笑いのためには手段を選ばないが、江戸は粋の文化であるから下ネタは嫌われる」というが、色艶をあつかった都々逸は粋であると思うのだがどうなんだろう?関西人の僕にはそのあたりはわからないなあ。
萩本欽一については、意図してか結果としてそうなったかは別として、「国民的な笑い」の象徴であるから、下ネタがご法度であるというのは頷ける。
だが、だからこそ欽ちゃんはおもしろくない。
さて表題にもある、下ネタの何がおもしろいのか、ということだが、これはダジャレと同様、謎である。
一般的に排泄、性に関する話題は公衆の面前ではタブーとされている。
すぐに思いつく「下ネタがおもしろい理由」としては、そのタブーを犯すことがおもしろい、ということである。
これは確かにある。
その場での笑いをとるために、過去に自分が犯した、自分ではそれほど大したことはない、と思っていた犯罪について話してしまったために芸能人人生を棒に振った芸能人が結構いる。
下ネタで語られる内容はタブーではありながら、それを犯すこと自体は犯罪にはなっていない。なので笑いとして成立する。
下ネタを具体的に笑い、しかも高度な笑いにしている例として僕がすぐに浮かぶのは伊集院光である。
伊集院光の高度な下ネタは、「笑いのためには手段を選ばない」関西での下ネタとは異なり、「(笑)い」と呼ぶべきものである。
伊集院光の下ネタについて考えると、いわゆる下ネタというものが単にタブーを犯すことだけで笑いを誘うものではないことに気づく。
それは「自虐性の笑い」と「あるあるネタ」である。
伊集院光の下ネタは基本的に自虐的である。
自分が短小で仮性包茎であること、ときどきウンコを漏らすこと、特殊な性的趣味を持っていること、ということで他者よりも劣っている、ということを笑いにする。
下ネタというものが、排泄、性に関するものである、ということはつまりはプライベートな問題で、普段は他人とは共有することのないものである。
他人と共有することがない個人的な場においての現象に共通性があるとすれば、それはあるあるネタになる。
つまり、「誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なこと」をネタにしていることになる。
タブーを犯すことで笑いを誘いながらも、それは自虐的であり、誰もが薄々気づいているがまだ意識上に野持っていない微妙なことを見せてくれる。
だから下ネタはおもしろい。
いわゆる「B級映画」の正確な定義を僕は知らないが、「宇宙人王さんとの遭遇」は明らかにB級映画である。
定義はどうであれ、そこに「B級」と呼ぶべき空気が漂っていればそれはB級映画なのである。理屈なんてどうでもいいんだよ、ロケンロール!な言い方で申し訳ないが。
まずそのタイトルにある「王さん」とは「わんさん」と読む。つまり、中国語を話す宇宙人が登場する。もうこの設定ですでにB級映画(ロケンロール!)である。
そして驚くことにこの映画はイタリアで創られたものであり、現代は「L'arrivo di Wang」。王さんと通訳が中国語を話す以外はほぼイタリア語だけ。
YMO「君に、胸キュン。」の歌詞にある「イタリアの映画でも観てるようだね」というくだりにあるイタリア映画への幻想が崩れる。
まず、なぜ地球を訪れた宇宙人が中国語を話すか、ということだが、王さんによれば「地球に来た時に、地球上で最も話されている言葉だったので中国語を選んだ。」ということらしい。なるほどこれは理にかなっている。
なぜ舞台がイタリアなのかはよく分からない。おそらく制作も監督もイタリア人だったのでそうなった、というだけのことであろう。つまり元々イタリア国内向けに創られた映画が世界的に有名になってしまった、ということなのだと思う。
この映画に登場する王さんは、別に「王」という名前ではないのだが、中国語を話すというところから、中国人の象徴として「王」と名付けられ、映画全体としては間接的に中国人を揶揄する、という巧みな方法によって、想定されるであろう中国人からの過剰な反応を回避しようとしている。
地球に来た目的が「地球を征服するため」という疑惑をかけられた王さんは、紳士的な態度で疑惑について答えるが、やがて電気ショックによる拷問にかけられる。
中国語の通訳としてその場に来た主人公は、その拷問に反対をする。
ここで「そもそも宇宙人に人権はあるのか?」というチープなテーマが浮かび上がる。チープだ。あまり深く考えたくないなあ。
そして主人公はその拷問にかけられている王さんを助け出そうとするが。。。まあ裏切られるわな。
この映画は、ヨーロッパ人から見た中国人を遠巻きに描いている。
表面的には紳士的な態度を装っているが、裏で何をたくらんでいるかわからない、そして裏切る中国人。
定義はどうであれ、そこに「B級」と呼ぶべき空気が漂っていればそれはB級映画なのである。理屈なんてどうでもいいんだよ、ロケンロール!な言い方で申し訳ないが。
まずそのタイトルにある「王さん」とは「わんさん」と読む。つまり、中国語を話す宇宙人が登場する。もうこの設定ですでにB級映画(ロケンロール!)である。
そして驚くことにこの映画はイタリアで創られたものであり、現代は「L'arrivo di Wang」。王さんと通訳が中国語を話す以外はほぼイタリア語だけ。
YMO「君に、胸キュン。」の歌詞にある「イタリアの映画でも観てるようだね」というくだりにあるイタリア映画への幻想が崩れる。
まず、なぜ地球を訪れた宇宙人が中国語を話すか、ということだが、王さんによれば「地球に来た時に、地球上で最も話されている言葉だったので中国語を選んだ。」ということらしい。なるほどこれは理にかなっている。
なぜ舞台がイタリアなのかはよく分からない。おそらく制作も監督もイタリア人だったのでそうなった、というだけのことであろう。つまり元々イタリア国内向けに創られた映画が世界的に有名になってしまった、ということなのだと思う。
この映画に登場する王さんは、別に「王」という名前ではないのだが、中国語を話すというところから、中国人の象徴として「王」と名付けられ、映画全体としては間接的に中国人を揶揄する、という巧みな方法によって、想定されるであろう中国人からの過剰な反応を回避しようとしている。
地球に来た目的が「地球を征服するため」という疑惑をかけられた王さんは、紳士的な態度で疑惑について答えるが、やがて電気ショックによる拷問にかけられる。
中国語の通訳としてその場に来た主人公は、その拷問に反対をする。
ここで「そもそも宇宙人に人権はあるのか?」というチープなテーマが浮かび上がる。チープだ。あまり深く考えたくないなあ。
そして主人公はその拷問にかけられている王さんを助け出そうとするが。。。まあ裏切られるわな。
この映画は、ヨーロッパ人から見た中国人を遠巻きに描いている。
表面的には紳士的な態度を装っているが、裏で何をたくらんでいるかわからない、そして裏切る中国人。
2016年06月29日
僕が行っていた大学は、日本語学科が日本一らしく(どう”日本一”なのかは知らないが)、日本語学科が日本一ということはつまりは世界一なわけで、世界中の日本語を学んでいる人が留学生として来ていた。
なので当時としては留学生が多い大学だったと思う。
そんな留学生の友達に、日本語の授業で「ダジャレ」が出てくるけど、ダジャレというものがどういうものかわからないので教えてほしい、と頼まれたことがある。
「ダジャレとは何かを説明せよ」と言われても、んー、「同じ言葉か似たような言葉を使って(ときには無理矢理)文を作ること」という感じで、説明してみたら何がおもしろいのかよく分からない説明しかできなかった。
あまりにもヘタな僕の説明のために全然伝わらなかったので、実際に例を上げてほしい、と言われ、僕はとっておきだった奴をいくつか言ってみた。
トイレに行っといれ。
氷屋のおっさんに怒られた、コリャー。
分野は10個もあれば充分や(十分野)。
もう、ドッカンドッカン笑いが来る、と思っていたのだが、留学生の彼は全く笑わず、むしろ目を輝かせている。
「ニホンノブンカハスバラシデスネ」と。
ドッカンドッカンを期待していただけに、こっちはがっかりだったのだが、考えてみれば似たような言葉を二つ使って文を作ることの何がおもしろいのか確かに分からない。
ダジャレで笑う、というのは日本だけのものなのだろうか?
西洋の詩は韻を踏む、ということを忠実に守る、という規則があるが、考えてみればダジャレのようなものである。
だがそれで笑うわけでもない。
日本にも古くは「掛詞(かけことば)」というものがあり、短歌などでの技として使われることもあったようだが、これも笑いではなくどちらかといえば「粋」である。
同じ言葉、あるいは似たような言葉を二回以上使う文を(無理矢理)作ること。
これの何がおもしろいんだろう?
ところが今となっては、ダジャレを言おうものなら「オヤジギャグ」などとバカにされるのがオチである。
あるいは「オヤジギャグ=つまらない」と分かっていながらそれをわざと言う、という二重の笑いもある。それとて「(笑)い」という程のレベルではないが。
だが確かにダジャレを言う時には、いずれかのレベルで笑いを誘おうという意図が確かにある。
なぜ?なぜそれがおもしろいのだろう?
ダジャレが笑いを誘うものというのは日本独特の文化のようである。
それが今では「オヤジギャグ」としてつまらないもの扱いを受けている。
今では、日本独特の笑いであるダジャレをテレビでも積極的に使っているのはデイブスペクターぐらいである。
デイブスペクターは、常にダジャレのストックを6000個持っている、と言われている。しかも日本語で。
日本独特の笑いを外国人に任せていていいのだろうか?
我々日本人はダジャレの地位を高め、日本特有の笑いのスタイルとして世界に誇るべきである。
そしてそれを外国人にダジャレについて説明してほしい、と言われた時には、「ニホンノブンカハスバラシデスネ」ではなく、ドッカンドッカンと笑わせようではないか!
なので当時としては留学生が多い大学だったと思う。
そんな留学生の友達に、日本語の授業で「ダジャレ」が出てくるけど、ダジャレというものがどういうものかわからないので教えてほしい、と頼まれたことがある。
「ダジャレとは何かを説明せよ」と言われても、んー、「同じ言葉か似たような言葉を使って(ときには無理矢理)文を作ること」という感じで、説明してみたら何がおもしろいのかよく分からない説明しかできなかった。
あまりにもヘタな僕の説明のために全然伝わらなかったので、実際に例を上げてほしい、と言われ、僕はとっておきだった奴をいくつか言ってみた。
トイレに行っといれ。
氷屋のおっさんに怒られた、コリャー。
分野は10個もあれば充分や(十分野)。
もう、ドッカンドッカン笑いが来る、と思っていたのだが、留学生の彼は全く笑わず、むしろ目を輝かせている。
「ニホンノブンカハスバラシデスネ」と。
ドッカンドッカンを期待していただけに、こっちはがっかりだったのだが、考えてみれば似たような言葉を二つ使って文を作ることの何がおもしろいのか確かに分からない。
ダジャレで笑う、というのは日本だけのものなのだろうか?
西洋の詩は韻を踏む、ということを忠実に守る、という規則があるが、考えてみればダジャレのようなものである。
だがそれで笑うわけでもない。
日本にも古くは「掛詞(かけことば)」というものがあり、短歌などでの技として使われることもあったようだが、これも笑いではなくどちらかといえば「粋」である。
同じ言葉、あるいは似たような言葉を二回以上使う文を(無理矢理)作ること。
これの何がおもしろいんだろう?
ところが今となっては、ダジャレを言おうものなら「オヤジギャグ」などとバカにされるのがオチである。
あるいは「オヤジギャグ=つまらない」と分かっていながらそれをわざと言う、という二重の笑いもある。それとて「(笑)い」という程のレベルではないが。
だが確かにダジャレを言う時には、いずれかのレベルで笑いを誘おうという意図が確かにある。
なぜ?なぜそれがおもしろいのだろう?
ダジャレが笑いを誘うものというのは日本独特の文化のようである。
それが今では「オヤジギャグ」としてつまらないもの扱いを受けている。
今では、日本独特の笑いであるダジャレをテレビでも積極的に使っているのはデイブスペクターぐらいである。
デイブスペクターは、常にダジャレのストックを6000個持っている、と言われている。しかも日本語で。
日本独特の笑いを外国人に任せていていいのだろうか?
我々日本人はダジャレの地位を高め、日本特有の笑いのスタイルとして世界に誇るべきである。
そしてそれを外国人にダジャレについて説明してほしい、と言われた時には、「ニホンノブンカハスバラシデスネ」ではなく、ドッカンドッカンと笑わせようではないか!
今年の4月に発表された、中ザワヒデキの人工知能美学芸術宣言に伴って発足された人工知能美学研究会の一回目の研究会がつい先日行われた。
もう20年以上前のことになるが、僕は大学院時代に建築学科でニューラルネットを研究し、「コンピューターに形態理論は理解できるか?」、さらには「ニューラルネットが学習によって得た知識から新たなデザインを創りだすことは可能か?」というテーマに本気で向き合っていた。当時の建築学科では異端扱いされながらも、建築学会では僕がその分野の第一人者だった。なぜなら僕しかやってなかったから(笑)。
そんな僕にとって、この「人工知能美学芸術宣言」は無関心でいられない問題であり、野次馬根性も少しあったので、第一回AI美芸研に参加してきた。
「研究会」という硬い名前が付けられながらも、一般の参加を受け入れてくれる、というのは非常にありがたいことで、遠巻きに恐る恐る見てみる、という野次馬にもちょうどよい。
僕の場合はこの問題に無関心でいられない立場なので、「野次馬以上恋人未満」だったわけだが。
「無関心でいられない」とは言うものの、僕はこのところ騒がれている「第三次AIブーム」についてかなり冷ややかに見ていて、この研究会の発起人が20名以上いる、というところから、色々な立場の人が、色々な目線で、色々変なことを言う人もいるんだろうな、と半分は期待、半分は行く前からウンザリしながら行ってみた。
中ザワヒデキを含め3名の登壇者がそれぞれの立場から発表を行い、また、客席からもするどい意見、質問が投げられる活発な研究会ではあったが、やはり行く前からの予想通り、各参加者(登壇者&客席)のレベル差、温度差が感じられるものだった。
「人工知能」という言葉遣いはファンタジーである。
人工的に知能を作ること。
基本的にコンピューターはプログラムによってアルゴリズムを実現するものである以上、「人工知能」という言葉がファンタジー、すなわち「見立て」である、ということを我々は忘れがちである。
この問題には常に「『知能』とは何か?」という哲学的問題が先立つはずで、世の人工知能研究者の多くはこの問題をとばしたまま、その技術的な応用に先走っている。
そしてそこではそれがファンタジーであるということをあっさりと忘れたまま、「コンピューターが自ら考えて◯◯をした」という言葉遣いをしている。
それがいつも僕を退屈にさせる。そして退屈だから今回もブームで終わることが目に見えている。
おそらく中ザワヒデキは僕と同じ危機感を持ってこの宣言を行っているのだろう。
AI美芸研の各参加者にレベル差、温度差があったこと。
そのレベル差、温度差も含んだまま、色々な考え、色々なバックグラウンドの人を集めてこの問題に取り組もう、という「場」を作ること。
この「場」を作るということこそが中ザワヒデキの今回の作品であり、宣言文も、研究会も、中ザワヒデキのパフォーマンス(芸術作品的な意味での)であり、これらすべてがコンセプチュアルアートである。
ここで中ザワヒデキが使っている「人工知能」という言葉は、世間で騒がれているものとは違うものを指している。
この「人工知能美学芸術宣言」に先立って行われた、中ザワヒデキ展「ソースと実行」と今回の「人工知能美学芸術宣言」との繋がりを考えれば、今回のものが中ザワヒデキのコンセプチュアルアートとしてのパフォーマンスであることがよくわかる。
「ソースと実行」展では、HTMLのコード自体を展示する、というコンセプチュアルなもので、そこで実行される結果よりも、ソースの側こそを作品主体とする、というもので、これは僕が長年思い描いている「瞑想するコンピューター」を連想させるものであった。
その告知ページのトップにもある「ソースと実行第四番」という作品は、コード内のコメント("<!--"と"-->"ではさまれたところ。ここはコードとしては無視して実行される。)にもある通り、何も表示しないものである。
これは、「瞑想するコンピューター」で僕が書いた、「計算結果を表示する二行目を書き忘れたプログラム」と同様、実行した人間に何ももたらさないもので、つまりこのときコンピューターはただ内部だけで自己完結している。言いかえれば瞑想している。さらに言いかえれば、これは技術的に何の機能も持たない、「純粋なプログラム」とでも呼ぶべきものである。
僕は、人工知能に可能性があるとすれば、技術的な応用に先走る前に、まずは人工知能自体が"純粋に"知覚だけをする、というところから始めるべきである、と考えている。(そして僕の興味は、より技術的な応用の可能性がない、人工生命の研究に移ってしまった。)
そういう意味においても、「人工知能美学芸術」という言葉に「美学」という言葉が使われていることは救いである。
人工知能において、「『知能』とは何か?」という問題をざおなり("おざなり"なのか"なおざり"なのかよくわからないので(笑))にしてはならないのと同様に、「人工知能美学芸術」について語るのであれば、「知能」に加えて「『美学』とは何か?」、「『芸術』とは何か?」という問題をないがしろにしてはならない。
まだ始まったばかりのAI美芸研なので、それについては今後語られていくことであろう。というよりかは、むしろそのことを語るための場というものを中ザワヒデキは作ろうとして今回の動きになっているように見える。
先日、中ザワヒデキはTwitterで次のような補足説明ととれるツイートをした。
さらにこれに続き以下の補足があった。
ここでは明らかに意図的に「『美学』とは何か?」、「『芸術』とは何か?」という問題についての定義を避けている。
「それをこれからみんなで語りましょう」と言っているように見える。
美学というものが「行う」ものなのか、という疑問は残るが、「美学」というものを仮に「『美』の本質に取り組む学問」であるとするなら、「美学芸術」というものには「批評性を持った知性」、すなわち「自己言及性」を持つことが必要となる。
Dを待望する中ザワヒデキは、「美学芸術」を"行う"人工知能というものは「自己言及性を持っている」ということが可能となることで「達成した」と言える、と考えている。
自己言及性を持つコンセプチュアルアートまでを含んだ芸術を実行するコンピューター。
。。。飛躍しすぎだ。
その「『D』の待望」自体が中ザワヒデキのコンセプチュアルアートであることを考えれば、「D」を待望することそのものも人工知能が実現できるようになることで中ザワヒデキの夢は完成するということか?
オープンソース界の中心であるGNUというものが、"GNU's Not Unix!"の頭文字をとったものである、ということを思い出す。
GNU's Not Unix!
GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!
GNU(GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!)'s Not Unix!
Dの夢をみる人工知能の夢をみる人工知能の夢をみる。。。人工知能は果たして可能か?
僕は野次馬以上恋人未満という立場でいつづけることにしよう。
もう20年以上前のことになるが、僕は大学院時代に建築学科でニューラルネットを研究し、「コンピューターに形態理論は理解できるか?」、さらには「ニューラルネットが学習によって得た知識から新たなデザインを創りだすことは可能か?」というテーマに本気で向き合っていた。当時の建築学科では異端扱いされながらも、建築学会では僕がその分野の第一人者だった。なぜなら僕しかやってなかったから(笑)。
そんな僕にとって、この「人工知能美学芸術宣言」は無関心でいられない問題であり、野次馬根性も少しあったので、第一回AI美芸研に参加してきた。
「研究会」という硬い名前が付けられながらも、一般の参加を受け入れてくれる、というのは非常にありがたいことで、遠巻きに恐る恐る見てみる、という野次馬にもちょうどよい。
僕の場合はこの問題に無関心でいられない立場なので、「野次馬以上恋人未満」だったわけだが。
「無関心でいられない」とは言うものの、僕はこのところ騒がれている「第三次AIブーム」についてかなり冷ややかに見ていて、この研究会の発起人が20名以上いる、というところから、色々な立場の人が、色々な目線で、色々変なことを言う人もいるんだろうな、と半分は期待、半分は行く前からウンザリしながら行ってみた。
中ザワヒデキを含め3名の登壇者がそれぞれの立場から発表を行い、また、客席からもするどい意見、質問が投げられる活発な研究会ではあったが、やはり行く前からの予想通り、各参加者(登壇者&客席)のレベル差、温度差が感じられるものだった。
「人工知能」という言葉遣いはファンタジーである。
人工的に知能を作ること。
基本的にコンピューターはプログラムによってアルゴリズムを実現するものである以上、「人工知能」という言葉がファンタジー、すなわち「見立て」である、ということを我々は忘れがちである。
この問題には常に「『知能』とは何か?」という哲学的問題が先立つはずで、世の人工知能研究者の多くはこの問題をとばしたまま、その技術的な応用に先走っている。
そしてそこではそれがファンタジーであるということをあっさりと忘れたまま、「コンピューターが自ら考えて◯◯をした」という言葉遣いをしている。
それがいつも僕を退屈にさせる。そして退屈だから今回もブームで終わることが目に見えている。
おそらく中ザワヒデキは僕と同じ危機感を持ってこの宣言を行っているのだろう。
AI美芸研の各参加者にレベル差、温度差があったこと。
そのレベル差、温度差も含んだまま、色々な考え、色々なバックグラウンドの人を集めてこの問題に取り組もう、という「場」を作ること。
この「場」を作るということこそが中ザワヒデキの今回の作品であり、宣言文も、研究会も、中ザワヒデキのパフォーマンス(芸術作品的な意味での)であり、これらすべてがコンセプチュアルアートである。
ここで中ザワヒデキが使っている「人工知能」という言葉は、世間で騒がれているものとは違うものを指している。
この「人工知能美学芸術宣言」に先立って行われた、中ザワヒデキ展「ソースと実行」と今回の「人工知能美学芸術宣言」との繋がりを考えれば、今回のものが中ザワヒデキのコンセプチュアルアートとしてのパフォーマンスであることがよくわかる。
「ソースと実行」展では、HTMLのコード自体を展示する、というコンセプチュアルなもので、そこで実行される結果よりも、ソースの側こそを作品主体とする、というもので、これは僕が長年思い描いている「瞑想するコンピューター」を連想させるものであった。
その告知ページのトップにもある「ソースと実行第四番」という作品は、コード内のコメント("<!--"と"-->"ではさまれたところ。ここはコードとしては無視して実行される。)にもある通り、何も表示しないものである。
中ザワヒデキ「ソースと実行第四番」
これは、「瞑想するコンピューター」で僕が書いた、「計算結果を表示する二行目を書き忘れたプログラム」と同様、実行した人間に何ももたらさないもので、つまりこのときコンピューターはただ内部だけで自己完結している。言いかえれば瞑想している。さらに言いかえれば、これは技術的に何の機能も持たない、「純粋なプログラム」とでも呼ぶべきものである。
僕は、人工知能に可能性があるとすれば、技術的な応用に先走る前に、まずは人工知能自体が"純粋に"知覚だけをする、というところから始めるべきである、と考えている。(そして僕の興味は、より技術的な応用の可能性がない、人工生命の研究に移ってしまった。)
そういう意味においても、「人工知能美学芸術」という言葉に「美学」という言葉が使われていることは救いである。
人工知能において、「『知能』とは何か?」という問題をざおなり("おざなり"なのか"なおざり"なのかよくわからないので(笑))にしてはならないのと同様に、「人工知能美学芸術」について語るのであれば、「知能」に加えて「『美学』とは何か?」、「『芸術』とは何か?」という問題をないがしろにしてはならない。
まだ始まったばかりのAI美芸研なので、それについては今後語られていくことであろう。というよりかは、むしろそのことを語るための場というものを中ザワヒデキは作ろうとして今回の動きになっているように見える。
先日、中ザワヒデキはTwitterで次のような補足説明ととれるツイートをした。
中ザワヒデキHidekiNAKAZAWA@nakaZAWAHIDEKI
#AI美芸研
2016/06/26 03:34:26
|人間が行う美学|機械が行う美学|
-------+-------+-------|
人間が行う芸術| A | B |
-------+-------+-------|
機械が行う芸術| C | D |
さらにこれに続き以下の補足があった。
中ザワヒデキHidekiNAKAZAWA@nakaZAWAHIDEKI
※人工知能美学芸術宣言は、「D」を問題としている。
2016/06/26 03:36:14
※中ザワヒデキは、「D」を待望している。
A…例:ルネッサンスの美学・芸術
B…(参考:解析的アプローチ)
C…(参考:自己生成系アート)
D…該当なし
#AI美芸研
ここでは明らかに意図的に「『美学』とは何か?」、「『芸術』とは何か?」という問題についての定義を避けている。
「それをこれからみんなで語りましょう」と言っているように見える。
美学というものが「行う」ものなのか、という疑問は残るが、「美学」というものを仮に「『美』の本質に取り組む学問」であるとするなら、「美学芸術」というものには「批評性を持った知性」、すなわち「自己言及性」を持つことが必要となる。
Dを待望する中ザワヒデキは、「美学芸術」を"行う"人工知能というものは「自己言及性を持っている」ということが可能となることで「達成した」と言える、と考えている。
自己言及性を持つコンセプチュアルアートまでを含んだ芸術を実行するコンピューター。
。。。飛躍しすぎだ。
その「『D』の待望」自体が中ザワヒデキのコンセプチュアルアートであることを考えれば、「D」を待望することそのものも人工知能が実現できるようになることで中ザワヒデキの夢は完成するということか?
オープンソース界の中心であるGNUというものが、"GNU's Not Unix!"の頭文字をとったものである、ということを思い出す。
GNU's Not Unix!
GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!
GNU(GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!)'s Not Unix!
Dの夢をみる人工知能の夢をみる人工知能の夢をみる。。。人工知能は果たして可能か?
僕は野次馬以上恋人未満という立場でいつづけることにしよう。
2016年06月28日
最近になってまたまた人工知能ブームがやってきたようだ。
やれやれ。
人工知能について騒がれているのはいつも「囲碁で人工知能が人間に勝った」だとか、「Siriの認識率が向上した」だのというように、実学的な話題ばかりで僕は退屈している。
かつて、人工知能ブームが去った後に、「人工生命」というものが現れたことがある。
人工知能にとって、「『知能』とは何か?」という哲学的な問題に意識的だった者と、哲学的な問題にはいっさい無関心で、ただ実学としてそれの応用を追求する者がいたが、「人工生命」ということになると、「『生命』とは何か?」という哲学的問題に無関心でいるわけにはいかない、新たなムーブメントであった。
人工生命は文字通り、人工的に生命を作る、という技術であるが、大きく二つに分けて考えられる。
「ウェットウェア」と「ドライウェア」である。
「ウェットウェア」とは、タンパク質のレベルから人工的に生命体を創りだそうとする試みで、タンパク質をコンピュータの演算に応用する、などといったクレイジーな試みも行われてきたが、これは現段階ではほとんどSFの世界である。
それに対し「ドライウェア」とは、いわゆる人工知能と同様、主にソフトウェアで生命に「見立てた」処理をさせる、というものであるが、ここにはハードウェアによる試みも含まれる。
ここではソフトウェアによる人工生命について説明しようと思う。
先ほども書いた通り、人工生命について考える際には「生命とは何か?」という哲学的問題がつきまとう。
人工生命の分野でこれまで行われてきた「生命」の定義としては、「環境に適応するための最適化を自らおこなう能力を持つ」という、生命にとってのある側面に限定されたものであった。
環境に適応するための最適化を自らおこなう。
これは、生命体の一個体が内部状態が安定するように環境の変化に適応する、ということと、世代交代によってより環境に適応できるように進化する、というダーウィンの進化論に基づくものがある。
ここで前回説明を試みた、「遺伝的アルゴリズム」が登場する。
人工的に「個体」と見立てられたある人工生命体は、その形や動き、性格を表す無数のパラメータを持つのだが、それらは、その個体が置かれた環境に合う/合わないというものがある。
たとえば1万個の人工生命体が放たれた「人工野原」に「気温」という要素があったとする。
1万個のそれぞれの人工生命体は、その性質として、最初に「最適温度」というものが適当に与えられる。
ある個体はそれが20度で、ある個体は5度となっていたりする。
もしその人工野原の気温が20度であったとすると、最適温度が5度に設定された個体にとっては不利となり、やがて滅びることになる。
気温が20度という人工野原において、生き残った人工生命体は、その環境にとって「優性」であり、 滅びることになった最適温度が5度だった個体は「劣性」ということになる。
人工野原に生き残った「優性」の個体は、次の世代を作り出すチャンスが与えられる。
遺伝的アルゴリズムの際に説明した「交配」である。
人工野原に生き残った優性な個体を両親に持つ新たな個体が生まれることになる。
これを繰り返すことによって、人工野原はその環境に適応できたものだけで埋めつくされるようになる。
あるいはもうすこし複雑な問題として、各個体に「肉食性」というパラメータを与えたとする。
肉食性というパラメータ値が高い、すなわち肉食生物は、盛んに他の個体を食べることで生命を維持しようとする。
一方肉食性パラメータ値が低い、草食生物は、植物(単純化のためにこれはこの人工野原内の生物とはせず、環境から与えられるもの、とする)から栄養を摂取し、肉食生物に捕食されることがある。
この条件では、世代交代を繰り返すうちに人工野原は肉食生物で埋め尽くされるように思ってしまいがちだが、自然界の生態系と同様にそうはならない。
肉食生物が草食生物を食べ尽すことにより草食生物が滅びることになると、肉食生物も滅びることになる。
肉食生物の数が少なくなると、捕食する相手がいない草食生物が増える。
以上により、人工野原には絶妙なバランスで肉食生物と草食生物が存在し続けることになる。
遺伝アルゴリズムは、無数のパラメータの組み合わせから最適解を得るための技術であったが、ここでの「最適」というものが、この環境(=人工野原)への適応力、ということになる。
上記の1つめの例の場合の「最適」とは、気温20度を最適温度と感じる生命体であり、2つ目の例では、肉食生物と草食生物の絶妙なバランスのことを指す。
つまり、「最適解」という正解が、人間によって恣意的に与えられるのではなく、環境の中での優性/劣性により選択されていく、ということである。
ここで我々が気づくべきことは、人工野原に適応する人工生命体が、そこに適応するように進化する、というシミュレーションは、我々にとって何の役にも立たない、ということである。
つまり、人工生命の研究というものは実学としてはあまり考えられることがなかった。
これも瞑想するコンピューターだったわけである。
【今回のまとめ】
やれやれ。
人工知能について騒がれているのはいつも「囲碁で人工知能が人間に勝った」だとか、「Siriの認識率が向上した」だのというように、実学的な話題ばかりで僕は退屈している。
かつて、人工知能ブームが去った後に、「人工生命」というものが現れたことがある。
人工知能にとって、「『知能』とは何か?」という哲学的な問題に意識的だった者と、哲学的な問題にはいっさい無関心で、ただ実学としてそれの応用を追求する者がいたが、「人工生命」ということになると、「『生命』とは何か?」という哲学的問題に無関心でいるわけにはいかない、新たなムーブメントであった。
人工生命は文字通り、人工的に生命を作る、という技術であるが、大きく二つに分けて考えられる。
「ウェットウェア」と「ドライウェア」である。
「ウェットウェア」とは、タンパク質のレベルから人工的に生命体を創りだそうとする試みで、タンパク質をコンピュータの演算に応用する、などといったクレイジーな試みも行われてきたが、これは現段階ではほとんどSFの世界である。
それに対し「ドライウェア」とは、いわゆる人工知能と同様、主にソフトウェアで生命に「見立てた」処理をさせる、というものであるが、ここにはハードウェアによる試みも含まれる。
ここではソフトウェアによる人工生命について説明しようと思う。
先ほども書いた通り、人工生命について考える際には「生命とは何か?」という哲学的問題がつきまとう。
人工生命の分野でこれまで行われてきた「生命」の定義としては、「環境に適応するための最適化を自らおこなう能力を持つ」という、生命にとってのある側面に限定されたものであった。
環境に適応するための最適化を自らおこなう。
これは、生命体の一個体が内部状態が安定するように環境の変化に適応する、ということと、世代交代によってより環境に適応できるように進化する、というダーウィンの進化論に基づくものがある。
ここで前回説明を試みた、「遺伝的アルゴリズム」が登場する。
人工的に「個体」と見立てられたある人工生命体は、その形や動き、性格を表す無数のパラメータを持つのだが、それらは、その個体が置かれた環境に合う/合わないというものがある。
たとえば1万個の人工生命体が放たれた「人工野原」に「気温」という要素があったとする。
1万個のそれぞれの人工生命体は、その性質として、最初に「最適温度」というものが適当に与えられる。
ある個体はそれが20度で、ある個体は5度となっていたりする。
もしその人工野原の気温が20度であったとすると、最適温度が5度に設定された個体にとっては不利となり、やがて滅びることになる。
気温が20度という人工野原において、生き残った人工生命体は、その環境にとって「優性」であり、 滅びることになった最適温度が5度だった個体は「劣性」ということになる。
人工野原に生き残った「優性」の個体は、次の世代を作り出すチャンスが与えられる。
遺伝的アルゴリズムの際に説明した「交配」である。
人工野原に生き残った優性な個体を両親に持つ新たな個体が生まれることになる。
これを繰り返すことによって、人工野原はその環境に適応できたものだけで埋めつくされるようになる。
あるいはもうすこし複雑な問題として、各個体に「肉食性」というパラメータを与えたとする。
肉食性というパラメータ値が高い、すなわち肉食生物は、盛んに他の個体を食べることで生命を維持しようとする。
一方肉食性パラメータ値が低い、草食生物は、植物(単純化のためにこれはこの人工野原内の生物とはせず、環境から与えられるもの、とする)から栄養を摂取し、肉食生物に捕食されることがある。
この条件では、世代交代を繰り返すうちに人工野原は肉食生物で埋め尽くされるように思ってしまいがちだが、自然界の生態系と同様にそうはならない。
肉食生物が草食生物を食べ尽すことにより草食生物が滅びることになると、肉食生物も滅びることになる。
肉食生物の数が少なくなると、捕食する相手がいない草食生物が増える。
以上により、人工野原には絶妙なバランスで肉食生物と草食生物が存在し続けることになる。
遺伝アルゴリズムは、無数のパラメータの組み合わせから最適解を得るための技術であったが、ここでの「最適」というものが、この環境(=人工野原)への適応力、ということになる。
上記の1つめの例の場合の「最適」とは、気温20度を最適温度と感じる生命体であり、2つ目の例では、肉食生物と草食生物の絶妙なバランスのことを指す。
つまり、「最適解」という正解が、人間によって恣意的に与えられるのではなく、環境の中での優性/劣性により選択されていく、ということである。
ここで我々が気づくべきことは、人工野原に適応する人工生命体が、そこに適応するように進化する、というシミュレーションは、我々にとって何の役にも立たない、ということである。
つまり、人工生命の研究というものは実学としてはあまり考えられることがなかった。
これも瞑想するコンピューターだったわけである。
【今回のまとめ】
- 人工生命にはウェットウェアとドライウェアがある。
- 人工生命体は遺伝的アルゴリズムによって世代をまたいで進化することで環境に適応していく。
- 人工生命の研究は、実学としてはあまり考えられることがなかった。