フィー

2016年06月20日

2ちゃんねるについて書いてみようと思ったが、その前にコモエスタ坂本について書かなければ!と思って急遽。
いわゆる「2ちゃん用語」といわれるものの源流はコモエスタ坂本にある、ということを誰もが忘れている。あるいは知らない。

というよりも、2ちゃんねるにみられるような、日本独特の形に発展したガラパゴスなWeb文化の源流はコモエスタ坂本にある、といっても過言ではない。
たぶんないと思う。
ないんじゃないかな?まちょと覚悟はしておけ。

今からちょうど20年前、まだインターネットが一般化する前夜、Webの世界はまさに創世期で、誰もが手探りであらゆるものがカオス状態で入り乱れていた。
インターネットに金の匂いを嗅ぎつけてくる奴らがやってくる前夜。そのカオス状態こそが桃源郷であり、アジアであった。

インターネットが軍事目的であったところから開放され、大学間を繋ぐ研究ツールからさらに一般家庭からも繋ぐことができるようになった直後、当時のアーリーアダプター達がこぞって個人ホームページを作って公開するようになった。

そんな中、コモエスタ坂本が登場した。
"Comoesta's Japan Home Vage"というサイトは、「二れはコモエスタ坂本が日本のホームページぞす」で始まり、「日本についそ」という間違った日本紹介を間違った日本語と英語で紹介する。
「二れは」、「ぞす」、「イソターネット」に見られるように、わざと日本語を間違える、という今のいわゆる2ちゃんねる用語の源流はここにある。

まだブログなどが存在しなかった当時の個人ホームページ(当時の呼び方)とは、今から考えたらかなりローテクで、今ではブログで簡単にできるようなことを、わざわざHTMLを覚えて、それをテキストエディタで書いて、それをFTPでサーバーにあげる、ということを誰もが手作業でやっていた時代。
それでも個人の自己表現をしたい願望は強いもので、皆がHTMLを覚えてその手作業をすることで世界中に自分を発信していた。

男性比率がかなり高かった当時のインターネット人口から見て、個人ホームページで最も人気があるのは、当然のことながら女性の個人ホームページである。
そのことを一番分かっていたのは当時、少数派であったはずの女性インターネットユーザーで、さらに個人ホームページをやっていた女性たちだ。
彼女たちは、その女性性をウリにすることで、世のエッチな男どものアクセスを稼ぎ、そこであからさまな自己表現を繰り返していた。別にエロなページだったわけでもないのだが。

今から考えれば、その自己表現というものもかわいいものであった。
まだインターネットでのビジネスモデルが確立されていなかった当時、そこに何らかの経済的な利益は発生する由もなく、ただ純粋に「自己表現」という欲求が満たされていただけの世界。
ああ、なんて牧歌的なんだろう?

でも、コモエスタ坂本は怒っていた。
女であることをウリにして、世の注目を独り占めしようとするその態度に。
ビジネスモデルが確立されていないインターネット創世期の価値観においては、金銭的な利益を得ようとすることよりも、「注目されること」こそが最も重要な"利益"であった。
ああ、なんて牧歌的なんだろう?

コモエスタ坂本は「女であることをウリにしている」個人ホームページをとりあげてそれを批評する、というよりも嬲りものにする、という「嬲リンク」というリンク企画を彼のページで始めた。 
それまで、慣れ合いで他の個人ホームページにリンクを張って、お互いに仲良く来訪者を共有しましょ、という牧歌的な空気をぶち壊し、基本的にネガティヴな文脈で他のホームページにリンクを張るということをやりのけた。

そして(当然のことながら)事件が起こった。

んー、長くなりそうなので何回かに分けて書くことにします。
続きはWebで。 

 


myinnerasia at 08:07|Permalink

2016年06月18日

大野左紀子さんの「アートヒステリー - なんでもかんでもアートな国・ニッポン」という本を読もうと思い、大野さんのそれまでの書籍を調べてみたら、それよりも前に、「アーティスト症候群 - アートと職人、クリエイターと芸能人」という本を先に書かれている、ということがわかり、どうせなら書かれた順番に先に書かれた方を読もう、ということで、そちらを先に読んだ。


「アーティスト症候群」は、大野さんの魂が込められた名作である。
その幻想剥がしの露骨さは、「ちょっと下品」とまで思えるものではあるが、痛快でもある。
また、一部の人への名指しの個人攻撃は結構読んでいて疲れるものではあるが、この本で大野さんは読者との闘いを仕掛けているのだ、ということに気づく。
この本を読もうと決心した者は、大野さんの魂に負けないように、最後まで読破するための努力を強いられるわけだが、それを読破し終わった後の爽快感はパねえ。

この本を読み終わった後の読者は、明らかに一皮むけたことを実感する。
「アート」というものが幻想である、ということ。
僕が、「ましてやアートでもないないものか」というようになったのは、この本の影響が大きい。

「アート」という幻想を維持するための虚言の数々。

「それはすでにアートの領域だ」
「私は◯◯ではなくて、アーティストですから」
「そんなものはアートじゃない。」 

一度その幻想に気づいてしまったら、その後とるべき道は、その幻想をさらに維持するための虚言を重ねようとがんばるか、「ホラッチョ」としておちょくるか、あるいはその幻想の強固さを見習って新たな幻想を生み出そうとがんばるか、のいずれかである。

僕は多分、3番目の道にいて、「()なにものか」から新たな幻想を生み出そうとしているのだろう。


myinnerasia at 18:09|Permalink

2016年06月16日

笑いの種類として、「自虐的な笑い」というものがある。(笑)いではなくて笑い。
自分がいかに劣っているか、ということをさらけ出すことで笑いをとる。
嘲笑をとることになっているのかもわからない。
でもそこには自分の弱みをすべてさらけ出してしまったあとの強さがある。
ある意味で無敵だ。

考えてみたら、フィーというのも自虐の強さなのかもしれない。
哀しき敗北宣言、という意味で。

たとえばむてきんぐは無敵ではあるが、彼のおもしろさには自虐性がある。
自らを「無職ニート」と名乗ったり、九州の方言を強調して、相手に「おまえは
シティーボーイを気取ってるのか!」とわざとイタいことを言ったり。

あるいは現代美術二等兵も、そのネーミングからして自虐的である。
兵隊の階級としては微妙な二等兵と名乗ること。
お菓子に「駄菓子」というものがあるように、美術にも「駄」があってもいいだろう、
ということで、自分たちの作品ジャンルを自ら「駄美術」と呼ぶ。

むてきんぐ、現代美術二等兵はいずれも、自虐的な態度を(笑)いにすることで
無敵になることに成功している。

ただ、自虐的な笑いの中にも、ぜんぜんダメなものがある。
サラリーマン川柳」だ。
毎年、サラリーマンから川柳を募集していて、今回で第29回とのことだが、
こんなにつまらないことを30年近くもやっているのか、とあきれてしまう。
はやくこういうのはやめていただきたい。つまらなすぎるから。

サラリーマンが日々のサラリーマン生活を自虐的に川柳にするのには別に
なんとも思わないが(おもしろくもないけど)、妻や子供から虐げられている様を
自虐的におもしろおかしく川柳にしているものが多い。
これは、自虐のように見えて、本質的にはイジメと同じものである。かっこ悪い。 

「自分で自分のことを貶めているんだから、イジメにはならないじゃないか」と
いう反論は認めない。
専業主婦が自虐的に、夫や子供から虐げられている様を川柳にすることは、
たとえそういう事実があったとしてもタブーである。笑えない。
それがそのまま逆になったというだけで、なぜ笑うことができるのか?(僕は
ぜんぜん笑わないけど)

要するに、サラリーマン川柳という醜い世界においては、サラリーマンは「誰が
叩いてもいい人」なのである。
みんなで笑いものにしよう、こいつはみんながオチにしてもいい人ですよ、という
公開処刑。

これは明らかに、むてきんぐや現代美術二等兵の自虐的な笑いとは質が異なる。
低レベルでダメダメだ。

今年のサラリーマン川柳の第一位の作品は、笑えないのはいつものことだが、
意味もよくわからない。

  退職金 もらった瞬間 妻ドローン

???
ちょっと昔の言葉で「ドロンする」という、要するに「姿が消える」という意味で
あるのは分かるが、それと「ドローン」がどう関係しているのか?
退職金と何か掛詞になっているのに僕が気づいていないだけ???
そもそも、これを一位にした理由は、やはりいつもの夫の自虐性なのか?
公開処刑なのか?

「この、『妻ドローン』ってあたりが、今流行りのドローンと掛かっていて今年っぽいでゲスよ」
「退職まで働いて、退職金貰ったら妻がそれを持って消えちゃう、というサラリーマンの
哀しさが出ていていい感じでヤンス」 
ここでもゲスでヤンスなやつらが世界をつまらなくしている。 

myinnerasia at 06:08|Permalink

2016年06月15日

東京都現代美術館で開かれた「大竹伸朗 全景1955-2006」展は、もう今から
10年近く前の出来事であった。
都現美が大竹伸朗の作品で埋め尽くされた暴力的な個展。
作品の内容は別にして、半分ぐらいを観たところで、もうグッタリとしていた。
作品数の半分だけであったとしても、おそらく大きめの企画展よりも作品数は多い
と思う。
それのさらに倍である。

「作品の内容は別にして」とは書いたが、とにかくこの展覧会については、質よりも
その量に圧倒される。

この時の図録は、のちに書籍として販売されているようだが、 Amazonでのレビューを
見ても、皆がその図録の分厚さについて言及しているのがおもしろい。


とにかく、「量は質を凌駕する」という言葉を思い知らされる展覧会であった。
(内容について一切触れないところについては気にしないように)

先日突然流れた、偉大なミュージシャンプリンスの訃報はショッキングだった。
僕が高校生の時、ちょうどテレビでMTVが流れるようになり、洋楽のプロモーション
ビデオブームになったわけだが、当時の高校生の間では、マイケルジャクソン派と
プリンス派に分かれていて、僕はプリンス派だったので、ショックだ。

プリンスについてよく聞かれる噂に、「未発表のストック局が1000曲以上ある」と
いうのがある。
これは噂だけに信ぴょう性については分からないが、とにかく、発表曲よりもはるかに
多いストック曲が未発表のままある、という神話。
1000曲の未発表作品がどこかに眠っている、と想像するだけで、そこに力を感じる。
これも「量は質を凌駕する」という言葉を思い起こさせる例である。

池田学の細密な絵を観るとき、僕はいつもプログラミングで同じようなものを描くと
したらどうするだろうか、と考えてしまう。
たとえ僕に絵心があったとしても、池田学と同じだけの手作業をしようという気には
ならないだろう。
とても人間が手作業で行ったとは思えないほどまでに緻密に描き込まれている。
その作業量、という意味において、池田学の作品についても「質を凌駕する」もの
であるといえる。


ものを創る者は、大竹伸朗、プリンス、池田学のように、質を凌駕するだけの量を
生産することで他の追随を許さない力を得ることができる。



myinnerasia at 18:00|Permalink

2016年06月11日

お笑いにはある一定のパターンなり約束事なりがあるはずだが、それらを逸脱して
訳がわからなくなっている笑いを指して「シュールな笑い」あるいは「シュールなギャグ」
という言いかたがある。

たとえば下記。
 

これは20年ほど前に「ダウンタウンのごっつええ感じ」で板尾創路が時々やっていた
「板尾係長」という20秒ほどの短尺もの。
工場をバックにプールがあり、毎回このプールから板尾係長が出てきて、一言だけ
何かを言う、というだけのもの。

ここで板尾係長が言う一言が、毎回、いかにも係長という役職の人が言いそうなこと
なのである。
工場をバックにしている、プールから係長が出てくる、ゴジラのテーマが流れる、、、

訳が分からない。

一般にこういう類のお笑いを「シュールな笑い」という。
この「シュール」とは、もちろん「シュルレアリスム」からきたものだろう。だが、本来の
「シュルレアリスム」と何の関係があるというのだろう?

芸術運動におけるシュルレアリスムとは、ロートレアモンの言葉にある、
「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」
というように、現実から逸脱することで文脈を外していく、ということである。
「超現実主義」と訳されるのも、現実を「超える」という上記の意味から来ている。

そういう意味では、いわゆる「シュールな笑い」というものは、現実から逸脱して
文脈を無視した笑い、ということで間違っているわけではないような気もする。

だが、現実から逸脱して文脈が外れることでなぜ笑いが起こるのだろうか? 
芸術運動としてのシュルレアリスムの作品を観ても笑いが起こらないのはなぜだろうか?
やっぱり「シュールな笑い」ということばはどうもしっくり来ない。

僕は、「シュールな笑い」という言葉は、別の言葉に置き換えられるべきだと思っている。
だが、それに置き換えるのにふさわしい言葉がなかなか見つからない。
とりあえず今は「シュールな(笑)い」とでも言っておくことにしよう。そうしよう。 

「笑い」という言葉を使わない場合については?
「シュールなギャグ」、「シュールな作品」、、、
これらについては、頭に「(いわゆる)」とカッコつきで付けたくなる。
「『シュールな』という言い方に納得してませんよー」という気持ちで。

だが、毎回「(いわゆる)」を付けるのもうっとおしいので、「()」と省略することで、
「()シュールなギャグ、「()シュールな作品」と言うことにしよう。そうしよう。 

myinnerasia at 05:07|Permalink