創ることについて
2016年10月20日
ものを創るとき、それが他人に見せるためのものなのか、自分を高めるためのものなのかによって、出来上がりは同じに見えても、その作品の意味は大きく異なる。
具体的には、、、たとえば3D空間を描くプログラミングの例で言えば、その3D空間の中で遠くに見える背景を細かく作りこむのか、遠くに見えるものはそのプログラムの本質に関係ない、ということで画像を貼り付けて、遠くの景色に見えるようにするのか、ということがよくある。
プログラムの本質に関係ないので、効率化のために(=高速化のために)処理を省けるところは省く、という考え方は正しい。車のプロモーションのためのCG動画で、遠くにある木の葉っぱ一枚一枚まで描きこむことはナンセンスだ。
このときの遠くの木をあらかじめ用意しておいた木の画像を貼り付けることで処理を省くことは、要するに「ハリボテ」である。
「どう見られるか」に集中してものを創ること。
このハリボテは、いわゆる「作品」と呼ばれるものだけではなく、たとえばビジネス・シーンにおけるプレゼンテーションなど、いたるところに見られるものである。
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具体的には、、、たとえば3D空間を描くプログラミングの例で言えば、その3D空間の中で遠くに見える背景を細かく作りこむのか、遠くに見えるものはそのプログラムの本質に関係ない、ということで画像を貼り付けて、遠くの景色に見えるようにするのか、ということがよくある。
プログラムの本質に関係ないので、効率化のために(=高速化のために)処理を省けるところは省く、という考え方は正しい。車のプロモーションのためのCG動画で、遠くにある木の葉っぱ一枚一枚まで描きこむことはナンセンスだ。
このときの遠くの木をあらかじめ用意しておいた木の画像を貼り付けることで処理を省くことは、要するに「ハリボテ」である。
「どう見られるか」に集中してものを創ること。
このハリボテは、いわゆる「作品」と呼ばれるものだけではなく、たとえばビジネス・シーンにおけるプレゼンテーションなど、いたるところに見られるものである。
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myinnerasia at 08:05|Permalink│Comments(0)
2016年10月11日
日本人は自分がアジア人であることを忘れがちだ。
「エスニック料理」と言えば、だいたいタイやベトナム、インドの料理を指すが、少なくとも日本においては日本料理は エスニック料理に入るとは考えられていない。
「アジア雑貨」と言えば、(日本以外の)アジアの雑貨を指す。日本は含まれていない。
これは西洋人が日本に抱く感覚と異なっている。
西洋人は日本についてもアジアであると認識しているし、日本人の顔つきをオリエンタルだ、と見ている。
この感覚の差異は、アートについても言える。
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「エスニック料理」と言えば、だいたいタイやベトナム、インドの料理を指すが、少なくとも日本においては日本料理は エスニック料理に入るとは考えられていない。
「アジア雑貨」と言えば、(日本以外の)アジアの雑貨を指す。日本は含まれていない。
これは西洋人が日本に抱く感覚と異なっている。
西洋人は日本についてもアジアであると認識しているし、日本人の顔つきをオリエンタルだ、と見ている。
この感覚の差異は、アートについても言える。
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myinnerasia at 08:02|Permalink│Comments(0)
2016年09月20日
ジャズの醍醐味はアドリブにある。
譜面通りに演奏するジャズはつまらない。
これはお笑いや演劇など、時間を持った芸に共通するものだろう。
緻密に創られたスクリプトがあって、その場の空気やノリによって、少しだけ変化を加えること。
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譜面通りに演奏するジャズはつまらない。
これはお笑いや演劇など、時間を持った芸に共通するものだろう。
緻密に創られたスクリプトがあって、その場の空気やノリによって、少しだけ変化を加えること。
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myinnerasia at 08:35|Permalink│Comments(0)
2016年08月30日
「パルテノン神殿は黄金比に基づいてデザインされている」ということをずっと信じていた僕は、それが都市伝説であった、ということを最近知ってショックを受けた。
かつて建築デザインを専攻していた僕は、作者個人の感性を拠り所にしない「普遍的な美の根拠」のようなものを求めていた。
芸術家個人の事情や作家の感性にもとづいた美学というものをまるで信用できなかったからだ。
そこで僕は「形」を作る時の拠り所として「黄金比」という古典的な美の基準に注目した。
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かつて建築デザインを専攻していた僕は、作者個人の感性を拠り所にしない「普遍的な美の根拠」のようなものを求めていた。
芸術家個人の事情や作家の感性にもとづいた美学というものをまるで信用できなかったからだ。
そこで僕は「形」を作る時の拠り所として「黄金比」という古典的な美の基準に注目した。
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myinnerasia at 08:03|Permalink│Comments(0)
2016年08月06日
小学生の頃は、図工の時間の「自由制作」が一番好きだった。
画用紙だけを渡されて「好きなものを描きなさい」とだけ言われる。
夏休みの「自由研究」が好きだった。
自分が興味があることについて好きなように調べる。
プールの時間の「自由」が好きだった。
水泳の授業でやることが一通り終わった後、時間が余ったときに先生が「自由!」と言と、生徒たちは「わぁ!」と大喜びして、残った時間をプールの中でふざける。
自由を謳歌する時間だ。
だけれどもいつの頃からか、「自由」を与えられると何もできなくなってしまった。
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画用紙だけを渡されて「好きなものを描きなさい」とだけ言われる。
夏休みの「自由研究」が好きだった。
自分が興味があることについて好きなように調べる。
プールの時間の「自由」が好きだった。
水泳の授業でやることが一通り終わった後、時間が余ったときに先生が「自由!」と言と、生徒たちは「わぁ!」と大喜びして、残った時間をプールの中でふざける。
自由を謳歌する時間だ。
だけれどもいつの頃からか、「自由」を与えられると何もできなくなってしまった。
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myinnerasia at 08:07|Permalink│Comments(0)