宣言風

2016年09月05日

「太陽や月や星が回っているのではない、地球が回っているのだ」と教わったときからずっと、僕はそれに違和感を感じ続けている。
地球が太陽の周りを回っている、という宇宙観。

ものが「動いている」ということを言うためには、静止している点を定義する必要がある。
この宇宙のどこかに唯一の「止まっている点」を定義しないことには、何が動いているか、ということは言えないはず。
そして、地球が止まっているのでなければ、太陽も止まっているわけではない。
この宇宙のすべてのものが動き続けているはずで、この宇宙には本当は止まっている点というものは存在しないはず。

そういうことを僕は、小さい頃からずっと感じていた。
だから、「太陽は止まっていて、地球は回っている」ということに違和感を感じていた。
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2016年07月23日

「芸術とは何か?」という問いを芸術作品そのものによって最初に投げかけたのはマルセル・デュシャンであった。
 ジョン・ケージは「4分33秒」によって「音楽とは何か?」という問いを投げかけた。

それまでの芸術、音楽の役割であると広く考えられていた「美を追求する」、「美しい音の流れを追求する」という価値観から、芸術自身、音楽自身を芸術、音楽によって切り離す。
それは自己言及的であり、最終の姿でもある。

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2016年07月18日

4分33秒的なるものは、「無」に限りなく近づくことによって、ミニマリズムの究極を目指すものであった。

僕が思い描いていた「瞑想するコンピューター」についてはどうか?
「瞑想するコンピューター」は、僕のプログラミングの経験の中でときどき起こることについて、そこから妄想しただけのものである。
計算をするが、その計算結果を表示しないコンピューター。

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2016年06月29日

僕が行っていた大学は、日本語学科が日本一らしく(どう”日本一”なのかは知らないが)、日本語学科が日本一ということはつまりは世界一なわけで、世界中の日本語を学んでいる人が留学生として来ていた。
なので当時としては留学生が多い大学だったと思う。

そんな留学生の友達に、日本語の授業で「ダジャレ」が出てくるけど、ダジャレというものがどういうものかわからないので教えてほしい、と頼まれたことがある。
「ダジャレとは何かを説明せよ」と言われても、んー、「同じ言葉か似たような言葉を使って(ときには無理矢理)文を作ること」という感じで、説明してみたら何がおもしろいのかよく分からない説明しかできなかった。
あまりにもヘタな僕の説明のために全然伝わらなかったので、実際に例を上げてほしい、と言われ、僕はとっておきだった奴をいくつか言ってみた。

トイレに行っといれ。
氷屋のおっさんに怒られた、コリャー。
分野は10個もあれば充分や(十分野)。

もう、ドッカンドッカン笑いが来る、と思っていたのだが、留学生の彼は全く笑わず、むしろ目を輝かせている。
「ニホンノブンカハスバラシデスネ」と。

ドッカンドッカンを期待していただけに、こっちはがっかりだったのだが、考えてみれば似たような言葉を二つ使って文を作ることの何がおもしろいのか確かに分からない。

ダジャレで笑う、というのは日本だけのものなのだろうか?

西洋の詩は韻を踏む、ということを忠実に守る、という規則があるが、考えてみればダジャレのようなものである。
だがそれで笑うわけでもない。
日本にも古くは「掛詞(かけことば)」というものがあり、短歌などでの技として使われることもあったようだが、これも笑いではなくどちらかといえば「粋」である。

同じ言葉、あるいは似たような言葉を二回以上使う文を(無理矢理)作ること。
これの何がおもしろいんだろう?

ところが今となっては、ダジャレを言おうものなら「オヤジギャグ」などとバカにされるのがオチである。
あるいは「オヤジギャグ=つまらない」と分かっていながらそれをわざと言う、という二重の笑いもある。それとて「(笑)い」という程のレベルではないが。
だが確かにダジャレを言う時には、いずれかのレベルで笑いを誘おうという意図が確かにある。
なぜ?なぜそれがおもしろいのだろう?

ダジャレが笑いを誘うものというのは日本独特の文化のようである。
それが今では「オヤジギャグ」としてつまらないもの扱いを受けている。
今では、日本独特の笑いであるダジャレをテレビでも積極的に使っているのはデイブスペクターぐらいである。
デイブスペクターは、常にダジャレのストックを6000個持っている、と言われている。しかも日本語で。
日本独特の笑いを外国人に任せていていいのだろうか?

我々日本人はダジャレの地位を高め、日本特有の笑いのスタイルとして世界に誇るべきである。

そしてそれを外国人にダジャレについて説明してほしい、と言われた時には、「ニホンノブンカハスバラシデスネ」ではなく、ドッカンドッカンと笑わせようではないか! 

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2016年06月22日

「ネタバレ」って何なんだろう?
小説や映画などで、もうそれを読み終わった/観終わった者が、そのあらすじや、予想を裏切る展開などの「しかけ」について、 これから読もうとしている/観ようとしている人に、あっさりとバラしてしまうこと。

これがとても悪いことのように言われるのはなぜなんだろうか?

これから読もう/観ようとしている人にとっては、その展開がどうなるのか、ドキドキハラハラしながらストーリーを追っていくことが、小説や映画の最も大きな楽しみである、というその楽しみをあっさりと奪ってしまうこと。
サプライズを期待しているのに、それがサプライズではなくすること。

観光について考えてみる。
今は、世界中のどこに行くにも、ガイドブックがあり、初めて行く街であっても、歩き方が分かっているものだ。
そのガイドブックを元に「◯◯城に行ったあとは、@@でその国名物の##を食べて、食後は%%跡地を見てからお土産に**を買って帰ろう」と計画する段階が旅行で最も楽しい、という皮肉がよく言われる。
実際にその地に行ったあとは、予め立てた計画をトレースするのみである、と。
写真で見た◯◯城を確認しに行くだけだ、と。

本当にそうなのだろうか?

実際に◯◯城に行ってみたら、その場の空気であるとか、その空間の中に入った感じなどを実感することができ、それはガイドブックでは感じることのできない感覚であるはず。そして、「ああ、またここに来たいなあ」と思うことがいい旅なんだと僕は思う。
実際に手に触れることで、その空間に入ることで、リアリティを実感すること。 
そこにサプライズがあるかどうかはあまり大きな問題ではない。

小説や映画についても同じで、サプライズはその作品の本質ではない。言いかえれば、サプライズこそをウリにしている作品というものは、読む価値/観る価値があまりない。
そのことに気づかせてくれたのは、昨日取りあげた映画、「FAKE」 だ。

「FAKE」はそのポスターのコピーで、「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間」と煽っていた。
この煽りは、あまりにもチープでキッチュなものであったが、これこそが「FAKE」という名にふさわしいしかけであって、実は別に衝撃などない、というメタサプライズになっている、ということを昨日書いた。

まだこの映画を観ていない人にとって、僕のネタばらしは楽しみを奪ったことになるのだろうか?

ネタばらしというものは批評であるべきであり、すべての批評はネタばらしである。
あるいは、そのネタに気づかなかった人に、そのネタに気づく方法を示すことでもある。
「僕はこう読みましたよ」
「ここのこのシーンは、こういう意味があったんですよ」
それは、これから読もう/観ようという人に対してであっても、もう読んだ/観た人に対してであっても、その作品のガイドブックの役割を果たす。
そして実際に旅をすると、その場の空気に触れることができる、というものだ。そこにサプライズは必要ない。
「ああ、またここに来たいなあ」と思えばいいのである。

だからこれからも僕はネタばらしをするぞ。 

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