愉快()犯

2016年08月13日

思想としてのポストモダンのブームが去ったのはソーカル事件が発端であった、と言われている。

ニューヨーク大学の物理学教授だったアラン・ソーカル教授が、当時のポストモダン思想誌「ソーシャル・テキスト」に「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」という擬似論文を投稿し、それが受諾されそのまま掲載された、という事件である。
何が事件だったかというと、この論文はまったくのデタラメで、当時のポストモダンの思想家の言葉を引用しつつ、意味のない数式を散りばめたひどいものであった、ということだ。
当時のポストモダン思想家が自然科学用語を誤用したり、いいかげんに引用したりすることへの批判だったわけである。 
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myinnerasia at 08:01|PermalinkComments(0)

2016年07月04日

沼正三、バンクシー、写楽。
この三者の共通点は、いずれも「覆面作家」であり、その正体が明らかにされていない、ということである。

特に苦悩系アーティストに見られる傾向であるが、自らが創った作品を作者と結びつける、という欲求は、それ自体が制作のモティベーションになっている。
それは「作家の作風」だとか「独特なマチエール」などの言葉にも表れているように、作家と作品の結びつきというものが、創る者にとってだけではなく、鑑賞者にとっても関心事になっている。

その「作家と作品の結びつき」というアートにとっての当然のルールとされてきたものをあっさりと破壊するのが「覆面作家」である。

自らの正体を明かすことなく作品を世に送り続けること。
これは作品から作家というものを切り離すというラディカリズムの実践である。

自らの顔を一般に明かすことはなく、覆面を着けてしか登場しないちきりんは、上記の意味での「覆面作家」とは言えない。彼女のブログ記事や著作などは、あきらかに「ちきりん」という個人と強く結びつき、ブランドとして成り立っている以上、作者と作品を切り離す、というラディカリズムはない。

覆面作家にとって、自らの作品を自分自身と切り離すというラディカリズムのモティベーションは、それらが愉快()犯である、というところにある。
作品の作者が不明なまま世に送り出され、それがある一定の評価を受ける。そして「それらを創ったのは誰なのか?」という謎までもが鑑賞者にとっての楽しみになっている、という愉快な犯。

本来、アート作品、文学作品などの創作物は、それを創ったのは誰か、ということがその作品にとっての重要な情報である。
その重要な情報を消し去ってしまうこと。これは説明不足であり、逆育てゲーである

    


myinnerasia at 08:09|Permalink

2016年06月13日

ブログ村のランキングに登録するときに、カテゴリーをテキトーに選んだら、
「ドジOL」部門でランキング1位になってしまった

まず、大カテゴリーでルーレットのようにパラパラパラとやりながら、ポチッと押したら
「日記」になった。
日記のサブカテゴリーも同じようにパラパラポチッとしたら、「OL」になった。
さらにOL日記のサブカテゴリでは、今度はパラパラポチッをせずに、「どんなのがあるのかなー」
と眺めていたら、「ドジOL」というのが目に入った。

ドジOL
なんともかぐわしい響き。
僕にピッタリではないか。

僕は迷わず「ドジOL」にエントリーした。
このブログの職業欄も「ドジOL」に書き換えた。
エントリーして二日後にはドジOL部門ランキングで1位になった。 

これはブログ村から怒られるのだろうか?

僕は何も間違ったことはしていない。(はず)
「ドジOL」部門の参加条件などは書いていない。「OL」というものが何の略なのか、も書いていない。
そもそも"OL"とは和製英語で、僕の英和辞書には載っていない。
なので僕は"OL"を"Optimistic Look(楽観的な顔つき)"と解釈した(ことにした)。

「ドジで楽観的な顔つき」
要するにバカ面?

もし今後ブログ村に怒られることがあるとしたら、「”ドジで楽観的な顔つき"の僕の日記と言う意味で、
"ドジOL"部門にエントリーさせていただいたのですが何か?」ということにしよう。そうしよう。

でも、僕はブログ村とケンカするつもりはないし、お世話になっているので、できることなら
このまま平和に"ドジOL"を名乗り続けさせていただきたい、と思っている。

そして調子に乗って、もうひとつのブログランキング、人気ブログランキングにも登録した。
カテゴリに「ドジOL」はなかったので、しかたなく、「OL」部門で。
これは、ブログ村での「ドジOL」の上位カテゴリにあたる「OL」部門なので、まだ57位ぐらい。
ブログ村は50位までしか表示されないようだが、OL部門ではまだランキングされていないからなあ。
ということで、下記の「ドジOL」「人気ブログランキング」のボタンをポチッとしていただけたら、
両方のブログランキングの「OL部門」でも上位に入れるので、どうぞよろしく。
このサイトをOL部門で一位にする、という愉快()犯をみんなでやろうではないか!

さて僕はこれまで自分の職業を"プログラマー"と名乗っていたのだが、実は最近の仕事はあまり
プログラミングをすることがなく、"ソリューション・アーキテクト"というのが今の勤め先での
正式な肩書だったりする。
でも、"ソリューション・アーキテクト"といっても、IT業界意外の人には何をする仕事か分かって
もらえないし、IT業界内でもわかってもらえないことがあると思う。
それに、僕自身のアイデンチーチーとしては今もずっとプログラマーなので、プログラマーという
のがもっともしっくりくる。

業界外の人と初めて会った時に、「お仕事は何をされているのですか?」と聞かれたらいつも
「プログラマーです」と言うようにしていた。
それでだいたいどんな感じのことをやっているのかは、ぼやーっとでも分かってもらえたはず。

ところが最近になって、自分の職業をテキトーに名乗ることをひとつのパフォーマンスにしてしまう
というのも面白いな、と思うようになった。

僕は大学、大学院と建築学科を出たので、「建築家」と名乗るのも良いだろう。
建築作品は一切創らないけど。(笑)
でも、「そもそも建築とは何か?」という問題を提起することにはなるかも、などと考えていた。
「建築家」と名乗るには一級建築士の資格を持っていないといけない、と思われがちだが、そんな
ことはない。安藤忠雄は一級建築士の資格を持っていないことで有名。

本気で「今後は建築家と名乗ろうかな」などと考えていたそのとき! 「ドジOL」事件である。

もう、これはドジOLを名乗るしかない。
「そもそもOLとは何か?」という問題提起のためにも。 

myinnerasia at 18:02|Permalink

2016年06月10日

「愉快犯」という言葉について、僕はずっとその意味を間違って思っていた。

愉快犯(ゆかいはん)とは、人(社会)を恐慌におとしめて、その醜態や慌てふためく様子を陰から観察する・あるいは想像して喜ぶ行為を指す。その行為がに抵触するか否か、するとすればどの法に抵触するかは、実行した行為による。 (ウィキペディアより) 

「人(社会)を恐慌におとしめて、その醜態や慌てふためく様子を陰から観察する・あるいは想像して喜ぶ行為」。。。。 
そうか。「犯」とつくだけに、人に迷惑をかける行為を指すのか。
僕は完全に勘違いしていた。「人を愉快にさせる匿名行為」を愉快犯というのだ、と。 

「その行為が法に抵触するか否か、するとすればどの法に抵触するかは、実行した行為による」
とのことなので、僕が思っていた愉快犯の解釈も100%間違いだったわけでもなさそうだ。

ここで突然、雑民党。

 

このビデオではカットされているのかも知れないが、当時、これを生で観た僕の記憶では、
もっと放送では言えない言葉を連発していた、と思う。それがそのまま放送されていた。

NHKという、国内では最もお固い放送局で、普通は放送では言えないような言葉を連発。
政見放送では、そこで語られたことを一切編集することなく、すべてそのまま放送する、という
ことで候補者の平等を保証する、という建前があるはずで、雑民党はそれを逆手にとって、
普段のNHKでは放送されるはずのない言葉を連発している。

これは僕がずっと勘違いしていた「愉快犯」という言葉を説明するための例として、もっとも
ふさわしいものだ。
「NHKでは絶対に放送しない言葉」をあっさりと連発してしまうその行為は、見ている側を
愉快にさせる。
もちろんこれを見て「不愉快だ」と感じる人もいるのだろうが、人(社会)を恐慌におとしめる
ほどのものでもない。

その行為を行った者が愉快なだけではなくて、見ている側も愉快になるもの、つまり僕がずっと
「愉快犯」だと思っていたもののことには、「愉快犯」とは別の呼び方が必要なようだ。
「愉快(な)犯」と呼ぼう。略して「愉快()犯」。

愉快な犯は時々、「アート」として解釈される。
渋谷に掲げられている岡本太郎の巨大な作品、「明日への神話」の横にChim↑Pomが作品を
添えた事件は、最初は「岡本太郎作品に落書き」と誤報されたが、実際には作品には危害を
与えておらず、その横に彼らの別の作品を添えただけ、ということであった。
ただし物理的な危害は与えなかったとしても、これもその元の作品に別解釈を与える、という
意味では元の作品を冒涜したことになる。

chimpom


Chim↑Pomがやったこの行為が、実際に元の作品に別解釈を与えることができたのかどうかは
別として、元の作品に何らかの意味を追加した、そしてそのことによって元の作品に再注目、再解釈
することを促すことになった、という意味で、僕にとっては愉快な犯であった。

さて、これらのような人(社会)を恐慌におとしめることなく、ただ人(社会)を愉快にさせる、
「愉快()犯」は犯罪なのだろうか?
これについてももちろん「愉快犯」の定義にある「実行した行為による」のだろうが。 

そしてこの「愉快()犯」についても、(笑)いと同じく、ビジネスなどでも応用可能である。
愉快()犯ビジネス。
もちろん、その場合でも犯罪になってしまうことはありえないわけだが。 

myinnerasia at 06:10|Permalink