虚構
2016年07月12日
「1日3分だけの簡単な作業であなたも月30万円確実に稼げます!」
「私はこれでフェラーリを買いました。今は六本木ヒルズに住んでいます。」
「あなたはただマニュアルどおりにやるだけ。資金も特別な技能もいりません」
こういうのにかかる人がいるのだろうか、といつも思いながらも暇つぶしにクリックしてみるのだが(笑)、なぜかいつも同じようなフォーマットのページに飛ばされる。
縦にやたら長く、かなりスクロールすることになる。
途中に枠囲みで数人の体験談。
札束の写真。
その下の方に「期間限定!今なら◯◯円!」。
「特別期間まであと◯◯時間◯◯分◯◯秒!」という数字が秒読みでカウントダウンしている。
これはおそらくこういう商法のマニュアルが出回っているのだろう。
かつて、「情報商材」という言葉が出始めた頃、何の情報を買うのかと調べてみたところ(買ってはいない笑)、そこで得られる「情報」とは、「情報商材の作り方、売り方」だ、ということが分かってびっくりしたことがある。
これは言わば間接的なねずみ講とでも呼ぶべきもので、中身のないものを連鎖的に売る、ということである。
早いうちに始めたものほど儲かる仕組み。最後に買う人はカモ。
情報商材の作り方、売り方
「情報商材の作り方、売り方」という情報商材の作り方、売り方
「「情報商材の作り方、売り方」という情報商材の作り方、売り方」という情報商材の作り方、売り方
と無限に再帰していく。
まあ、こんなのに引っかかる頭の弱い人(以下、バカと記す)はそんなに多くないはずなので、純粋にn乗になるわけでもなく、それぞれに係数がかかってくるから、「指数関数的に」とはならないだろうが。
だがここで、ただ「これはねずみ講ではないか!」だとか、「こんなものには引っかからなるやつはバカだ」などとツッコむだけでは野暮である。
ボケは常に粋なんだから、そこから粋を学ばないともったいない。
ここからは勝手な想像で書くのであるが、この「情報商材の作り方、売り方」の無限連鎖商法を思いついた人は、おそらく「チェーンメール」や「不幸の手紙」にヒントを得たのではないだろうか?
つまり昔からあるボケから粋を学んだわけである。
「この手紙を受け取った方は◯◯日以内に同じ内容の手紙を◯人に送らないと不幸が訪れます」という脅迫。
これは愉快犯なのか愉快()犯なのかはよく分からないが、脅迫をしている時点で犯罪なのだろう。
ここからヒントを得て、ねずみ講に見えないねずみ講を作って大儲け、というのもグレーである。
。。。などと語っている事自体が既に野暮なわけではあるが。。。
もっと愉快なやり方はないものだろうか?
このボケの粋から学ぶことができれば、そこから愉快()犯が可能になる。
少なくとも縦にやたら長いページでひと儲けしよう、などとやっているかつてバカだった人たちよりかは面白くなるだろう。
「私はこれでフェラーリを買いました。今は六本木ヒルズに住んでいます。」
「あなたはただマニュアルどおりにやるだけ。資金も特別な技能もいりません」
こういうのにかかる人がいるのだろうか、といつも思いながらも暇つぶしにクリックしてみるのだが(笑)、なぜかいつも同じようなフォーマットのページに飛ばされる。
縦にやたら長く、かなりスクロールすることになる。
途中に枠囲みで数人の体験談。
札束の写真。
その下の方に「期間限定!今なら◯◯円!」。
「特別期間まであと◯◯時間◯◯分◯◯秒!」という数字が秒読みでカウントダウンしている。
これはおそらくこういう商法のマニュアルが出回っているのだろう。
かつて、「情報商材」という言葉が出始めた頃、何の情報を買うのかと調べてみたところ(買ってはいない笑)、そこで得られる「情報」とは、「情報商材の作り方、売り方」だ、ということが分かってびっくりしたことがある。
これは言わば間接的なねずみ講とでも呼ぶべきもので、中身のないものを連鎖的に売る、ということである。
早いうちに始めたものほど儲かる仕組み。最後に買う人はカモ。
情報商材の作り方、売り方
「情報商材の作り方、売り方」という情報商材の作り方、売り方
「「情報商材の作り方、売り方」という情報商材の作り方、売り方」という情報商材の作り方、売り方
と無限に再帰していく。
まあ、こんなのに引っかかる頭の弱い人(以下、バカと記す)はそんなに多くないはずなので、純粋にn乗になるわけでもなく、それぞれに係数がかかってくるから、「指数関数的に」とはならないだろうが。
だがここで、ただ「これはねずみ講ではないか!」だとか、「こんなものには引っかからなるやつはバカだ」などとツッコむだけでは野暮である。
ボケは常に粋なんだから、そこから粋を学ばないともったいない。
ここからは勝手な想像で書くのであるが、この「情報商材の作り方、売り方」の無限連鎖商法を思いついた人は、おそらく「チェーンメール」や「不幸の手紙」にヒントを得たのではないだろうか?
つまり昔からあるボケから粋を学んだわけである。
「この手紙を受け取った方は◯◯日以内に同じ内容の手紙を◯人に送らないと不幸が訪れます」という脅迫。
これは愉快犯なのか愉快()犯なのかはよく分からないが、脅迫をしている時点で犯罪なのだろう。
ここからヒントを得て、ねずみ講に見えないねずみ講を作って大儲け、というのもグレーである。
。。。などと語っている事自体が既に野暮なわけではあるが。。。
もっと愉快なやり方はないものだろうか?
このボケの粋から学ぶことができれば、そこから愉快()犯が可能になる。
少なくとも縦にやたら長いページでひと儲けしよう、などとやっているかつてバカだった人たちよりかは面白くなるだろう。
myinnerasia at 08:09|Permalink│Comments(0)
2016年07月11日
田舎の国道を車で走っていると、初めて来た土地であるにもかかわらず、以前に見たことがある風景のような気持ちになることがある。
デジャヴ。
まず、田舎には軽自動車が多い。
人口密度と軽自動車普及率は見事に反比例するそうだ。
車がないと生活できない地においては、一家に数台必要になるから、必然的に軽自動車が普及するのだろう。
そして何よりも、国道沿いにはチェーン店やフランチャイズが多い。
マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、吉野家、洋服の青山、ユニクロ、家電量販店、、、
日本中の田舎の国道はこれらのチェーン店、フランチャイズに埋め尽くされている。
これを「ファースト風土」と言うらしい。結構ゲスでヤンスなネーミングではあるが、「うまいこと言うなあ」と思えるのがちょっと癪だ。
全国で、あるいは全世界で画一的な商品とサービスを提供するファーストフード店によって、その地域性が奪われていく風景。
本来は都会から離れた地で、ガラパゴス的に独自の文化が形成される、というのは今では夢物語になっている。
どこの国道を走っていても同じ風景が広がるだけ。
このファースト風土を題材にした小説がある。
山内マリコ「ここは退屈迎えに来て」だ。
これは8篇の短編からなるもので、それぞれは独立した話になっている。
いずれも田舎がファースト風土化することで退屈な場になっていながらも、都会での生活とは何らかの形で距離を置き続けている若者たち、という世界をリアルに描いたものである。
この小説を読むと浮かんでくる風景は、オピーの風景画のような、無味無臭の乾燥した風景だ。
人物を細かく描く小説であるにもかかわらず、浮かび上がる風景はノーマンズランドであるということが不思議。
それはオピーが描く人物画が人物を描いていない、ということに似ているのかもしれない。
グローバリズムは、閉じられた地域で独自に形成された文化(ガラパゴス)を壊し、人の気配を消し去り、それをノーマンズランドというべき風景と置き換える。
そのこと自体が良いことなのか、悪いことなのかはよく分からない。
そこに住み続ける若者にはガラパゴス文化は必要なかったのかもしれない。どこに行っても同じ風景だからこそ、移動する必要もなかったのだろう。
でも、退屈はよくない。
デジャヴ。
まず、田舎には軽自動車が多い。
人口密度と軽自動車普及率は見事に反比例するそうだ。
車がないと生活できない地においては、一家に数台必要になるから、必然的に軽自動車が普及するのだろう。
そして何よりも、国道沿いにはチェーン店やフランチャイズが多い。
マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、吉野家、洋服の青山、ユニクロ、家電量販店、、、
日本中の田舎の国道はこれらのチェーン店、フランチャイズに埋め尽くされている。
これを「ファースト風土」と言うらしい。結構ゲスでヤンスなネーミングではあるが、「うまいこと言うなあ」と思えるのがちょっと癪だ。
全国で、あるいは全世界で画一的な商品とサービスを提供するファーストフード店によって、その地域性が奪われていく風景。
本来は都会から離れた地で、ガラパゴス的に独自の文化が形成される、というのは今では夢物語になっている。
どこの国道を走っていても同じ風景が広がるだけ。
このファースト風土を題材にした小説がある。
山内マリコ「ここは退屈迎えに来て」だ。
これは8篇の短編からなるもので、それぞれは独立した話になっている。
いずれも田舎がファースト風土化することで退屈な場になっていながらも、都会での生活とは何らかの形で距離を置き続けている若者たち、という世界をリアルに描いたものである。
この小説を読むと浮かんでくる風景は、オピーの風景画のような、無味無臭の乾燥した風景だ。
人物を細かく描く小説であるにもかかわらず、浮かび上がる風景はノーマンズランドであるということが不思議。
それはオピーが描く人物画が人物を描いていない、ということに似ているのかもしれない。
グローバリズムは、閉じられた地域で独自に形成された文化(ガラパゴス)を壊し、人の気配を消し去り、それをノーマンズランドというべき風景と置き換える。
そのこと自体が良いことなのか、悪いことなのかはよく分からない。
そこに住み続ける若者にはガラパゴス文化は必要なかったのかもしれない。どこに行っても同じ風景だからこそ、移動する必要もなかったのだろう。
でも、退屈はよくない。
myinnerasia at 18:02|Permalink│Comments(0)
2016年07月10日
ジュリアン・オピーは人物画で有名だ。
言い換えると、「ジュリアン・オピー」と聞くと、ほとんどの人は無機質でとぼけたようなあの人物画を想像することだろう。
まん丸の目、太い輪郭線、マチエールというものを一切排除したフラットな色彩。
ところが、ジュリアン・オピーは風景画も描いていたりする。
そしてそれらの風景画が、ジュリアン・オピーの人物画の意味を考えなおさせるきっかけになっている。
ジュリアン・オピーが描く風景画には、人物は登場しない。
誰もいない風景。ノーマンズランド。
まるで無機質な。
では、そもそもジュリアン・オピーの人物画には人物が描かれていたのだろうか?
という疑問がわいてくる。
あれだけの数の人物画を描きながら、そこに人の気配が感じられない。
アート界におけるオピーの位置づけは微妙である。
確かにインテリアとしてオサレに扱うこともできるし、かなりボサノバであるようにも見える。
そこからコンセプチュアルなものを読み取ることはかなり困難で、もしかしたらラッセンと同じ扱いになってしまう可能性もある。
というか、ラッセンとかヒロ・ヤマガタを扱っているような、詐欺まがいのギャラリーに置いてそう。
綺麗なおねえちゃんが「これからは、アートにも投資するべきですよ」とか言って無理矢理買わせる系の。
僕は、そういう詐欺ギャラリーのやり方は別として、ラッセンやヒロ・ヤマガタについても、あれはあれでラディカルだなあ、と思っている。彼らを無視するアート界の方がおかしい。
でも、ジュリアン・オピーについては、それとはまた違うものを感じるのだ。
というよりかは、何も感じない。
徹底的に「何も感じさせないこと」を目指しているように思える。
という意味で、ジュリアン・オピーは究極のミニマリストである。
風景画としてノーマンズランドを描くこと。
人の気配を感じさせない人物画を描くこと。
ジュリアン・オピーは最もわかりにくいコンセプチュアル・アーティストであり、説明不足すぎる。
そしてその説明不足さこそが、逆育てゲーというおもしろいゲームでもあったりする。
言い換えると、「ジュリアン・オピー」と聞くと、ほとんどの人は無機質でとぼけたようなあの人物画を想像することだろう。
まん丸の目、太い輪郭線、マチエールというものを一切排除したフラットな色彩。
ところが、ジュリアン・オピーは風景画も描いていたりする。
そしてそれらの風景画が、ジュリアン・オピーの人物画の意味を考えなおさせるきっかけになっている。
ジュリアン・オピーが描く風景画には、人物は登場しない。
誰もいない風景。ノーマンズランド。
まるで無機質な。
では、そもそもジュリアン・オピーの人物画には人物が描かれていたのだろうか?
という疑問がわいてくる。
あれだけの数の人物画を描きながら、そこに人の気配が感じられない。
アート界におけるオピーの位置づけは微妙である。
確かにインテリアとしてオサレに扱うこともできるし、かなりボサノバであるようにも見える。
そこからコンセプチュアルなものを読み取ることはかなり困難で、もしかしたらラッセンと同じ扱いになってしまう可能性もある。
というか、ラッセンとかヒロ・ヤマガタを扱っているような、詐欺まがいのギャラリーに置いてそう。
綺麗なおねえちゃんが「これからは、アートにも投資するべきですよ」とか言って無理矢理買わせる系の。
僕は、そういう詐欺ギャラリーのやり方は別として、ラッセンやヒロ・ヤマガタについても、あれはあれでラディカルだなあ、と思っている。彼らを無視するアート界の方がおかしい。
でも、ジュリアン・オピーについては、それとはまた違うものを感じるのだ。
というよりかは、何も感じない。
徹底的に「何も感じさせないこと」を目指しているように思える。
という意味で、ジュリアン・オピーは究極のミニマリストである。
風景画としてノーマンズランドを描くこと。
人の気配を感じさせない人物画を描くこと。
ジュリアン・オピーは最もわかりにくいコンセプチュアル・アーティストであり、説明不足すぎる。
そしてその説明不足さこそが、逆育てゲーというおもしろいゲームでもあったりする。
myinnerasia at 19:49|Permalink│Comments(0)
2016年07月08日
音楽で初めて「アンビエント」という言葉を使ったのはブライアン・イーノである。
"Ambient 1: Music for Airports"はその名のとおり、空港で流すために作られたものである。
アンビエントミュージックは日本語では「環境音楽」と呼ばれるようになった。
音楽から楽曲性を排除することで、自らを「インテリア」とすること。
覆面作家というものが作品と作者の関係を切り離す、というラディカリズムであったのに対し、ブライアン・イーノのアンビエントミュージックは、作品の作品性を排除する、というラディカリズムである。
自らがインテリアとなった音楽は、空港という広い空間の一部として存在することになる。
空港は世界中から人が集まり、世界中に人が出て行く出入り口になる訳だが、たとえそこに人がひとりもいなくても、ブライアン・イーノのアンビエントミュージックは流れ続けることになる。
"Ambient 1: Music for Airports"を空港においてではなく、ヘッドホンで聴くと、ある不思議な感覚が沸く。
人の気配を一切感じない空間のようなものを感じる。
これもおそらくノーマンズランド感覚なのだろう。
そして「アンビエント」という言葉は本来の意味からどんどん変化していくことになる。
まず、瞑想やリラクゼーションのために流されるものが「環境音楽」と呼ばれるようになる。
従来の楽曲が持っていたメロディーやリズム、展開などが排除されるために、感情への余計な影響がなく、深くリラックスできる、という音楽。
さらに「アンビエント」は、ハウスミュージックのひとつの分野となった。
本来はダンスミュージックだったはずのハウスミュージックは進化と変化を繰り返し、色々な形のものが現れるようになり、ダンスによる疲れやダンスが行われるクラブでの薬物の過剰摂取から回復するための「チルアウト」目的に使われる音楽をアンビエントと呼ぶようになった。
これらは本来ブライアン・イーノが実践した「音楽をインテリアとすることで音楽性を排除する」というラディカリズムとはまったく関係のない方向である。
そしてそこはノーマンズランドでもない。
"Ambient 1: Music for Airports"はその名のとおり、空港で流すために作られたものである。
アンビエントミュージックは日本語では「環境音楽」と呼ばれるようになった。
音楽から楽曲性を排除することで、自らを「インテリア」とすること。
覆面作家というものが作品と作者の関係を切り離す、というラディカリズムであったのに対し、ブライアン・イーノのアンビエントミュージックは、作品の作品性を排除する、というラディカリズムである。
自らがインテリアとなった音楽は、空港という広い空間の一部として存在することになる。
空港は世界中から人が集まり、世界中に人が出て行く出入り口になる訳だが、たとえそこに人がひとりもいなくても、ブライアン・イーノのアンビエントミュージックは流れ続けることになる。
"Ambient 1: Music for Airports"を空港においてではなく、ヘッドホンで聴くと、ある不思議な感覚が沸く。
人の気配を一切感じない空間のようなものを感じる。
これもおそらくノーマンズランド感覚なのだろう。
そして「アンビエント」という言葉は本来の意味からどんどん変化していくことになる。
まず、瞑想やリラクゼーションのために流されるものが「環境音楽」と呼ばれるようになる。
従来の楽曲が持っていたメロディーやリズム、展開などが排除されるために、感情への余計な影響がなく、深くリラックスできる、という音楽。
さらに「アンビエント」は、ハウスミュージックのひとつの分野となった。
本来はダンスミュージックだったはずのハウスミュージックは進化と変化を繰り返し、色々な形のものが現れるようになり、ダンスによる疲れやダンスが行われるクラブでの薬物の過剰摂取から回復するための「チルアウト」目的に使われる音楽をアンビエントと呼ぶようになった。
これらは本来ブライアン・イーノが実践した「音楽をインテリアとすることで音楽性を排除する」というラディカリズムとはまったく関係のない方向である。
そしてそこはノーマンズランドでもない。
myinnerasia at 18:09|Permalink│Comments(0)
2016年07月07日
誰もいない森の中で大きな木の実が木から落ちた。
この時、木の実が落ちる音はするのだろうか?
答えは「音はしない」。
なぜなら、「音」の定義が、「空気が震えが耳に届いて鼓膜を震わせること」だからだ。
つまり、誰もいない森には音はない。
軍艦島のことを思うとき、いつもこの誰もいない森のことを思い出す。
最近は軍艦島ツアーなるものがあるようで、行こうと思えば誰でも行けるようになった軍艦島であるが、80年代ごろは誰も上陸することができなかった。
「遠くから見ると軍艦に見える」ということから「軍艦島」と呼ばれるようになったこの島は長崎県に属し、正式な名前を「端島」と言うそうだ。
かつては炭鉱として栄え、最盛期には人口密度が東京を超えていたというから驚きだ。
そして炭鉱が閉山された後、無人島となった。
かつて栄えた島は、そこにある建物も残されたまま廃墟の島となった。
誰も行くことができない巨大な廃墟。
そこには人が一人もおらず、犬や猫もいない。おそらく鳥も、ネズミのような小動物もいないだろう。
誰もいない巨大な廃墟に朝が来て、一日が流れ、やがて夜が来る。
空虚な空間に空虚な時間が繰り返される。
誰も行くことができなかった頃の軍艦島に思いをはせるときのその独特の気持ちを何と表せばいいのだろうか、と僕はずっと考えていた。
ただ「廃墟」というのとはちょっと違う。「廃墟」は一般的には行こうと思えば行ける場所が多いだろう。
ツアーまでがあるようになったので今ではもうそうではなくなったが、かつての軍艦島は「ノーマンズランド」とでも呼ぶべき場所だった。
誰もいない島に、かつて栄えた町がそのまま残され、そこに朝が来て夜が来る。
誰もいない森で、大きな木の実が落ちる。
myinnerasia at 08:02|Permalink│Comments(0)