逆育てゲー

2016年10月23日

「表現することに逃げる」だとか、「身体感覚に訴えることに逃げる」という表現をしたので、まるで僕が(芸術的な)表現することそのものを否定しているように思われたかも知れないが、そういうことを言ったつもりはない。

僕が言いたいことは、表現、および表現の手法に主眼を置きすぎて、本来そこで表現されるべきだったものがないがしろになる、ということが本末転倒である、ということだ。
これは今の第3次AIブームについても言えることである。

芸術作品だけではなく、なんらかの製品をも含めたある作品について、作者がその作品のコンセプトとして考えていることが、その作品を観るだけでわかる、ということはよくある。
これは「作品に語らせる」ことに成功した例だろう。 

一方で僕は、何らかの作品が説明不足であることが逆育てゲーである、と書いたことがある。
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myinnerasia at 10:07|PermalinkComments(0)

2016年09月09日

「見立て」というものは日本の伝統のあちこちに見られる。
たとえば落語では手ぬぐいと扇子が様々なものに見立てられて演じられることが芸になっている。

手ぬぐいを丼に、扇子を箸に見立てて、うどん(江戸落語では蕎麦)をすする様を見ていると、本当にうどんが食べたくなったりする。観る者にそこまで感じさせられるかどうか、というのが落語家の腕の見せどころでもある。

でもなぜ手ぬぐいと扇子だけで何もかもを表すことがそれほど素晴らしいことなのだろうか?
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2016年07月10日

ジュリアン・オピーは人物画で有名だ。
言い換えると、「ジュリアン・オピー」と聞くと、ほとんどの人は無機質でとぼけたようなあの人物画を想像することだろう。
まん丸の目、太い輪郭線、マチエールというものを一切排除したフラットな色彩。

ところが、ジュリアン・オピーは風景画も描いていたりする。
そしてそれらの風景画が、ジュリアン・オピーの人物画の意味を考えなおさせるきっかけになっている。
julian_opie

ジュリアン・オピーが描く風景画には、人物は登場しない。
誰もいない風景。ノーマンズランド。 
まるで無機質な。

では、そもそもジュリアン・オピーの人物画には人物が描かれていたのだろうか?
という疑問がわいてくる。

あれだけの数の人物画を描きながら、そこに人の気配が感じられない。

opie

アート界におけるオピーの位置づけは微妙である。
確かにインテリアとしてオサレに扱うこともできるし、かなりボサノバであるようにも見える。
そこからコンセプチュアルなものを読み取ることはかなり困難で、もしかしたらラッセンと同じ扱いになってしまう可能性もある。
というか、ラッセンとかヒロ・ヤマガタを扱っているような、詐欺まがいのギャラリーに置いてそう。
綺麗なおねえちゃんが「これからは、アートにも投資するべきですよ」とか言って無理矢理買わせる系の。

僕は、そういう詐欺ギャラリーのやり方は別として、ラッセンやヒロ・ヤマガタについても、あれはあれでラディカルだなあ、と思っている。彼らを無視するアート界の方がおかしい。
でも、ジュリアン・オピーについては、それとはまた違うものを感じるのだ。
というよりかは、何も感じない。

徹底的に「何も感じさせないこと」を目指しているように思える。
という意味で、ジュリアン・オピーは究極のミニマリストである。

風景画としてノーマンズランドを描くこと。
人の気配を感じさせない人物画を描くこと。

ジュリアン・オピーは最もわかりにくいコンセプチュアル・アーティストであり、説明不足すぎる。
そしてその説明不足さこそが、逆育てゲーというおもしろいゲームでもあったりする。 


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2016年07月04日

沼正三、バンクシー、写楽。
この三者の共通点は、いずれも「覆面作家」であり、その正体が明らかにされていない、ということである。

特に苦悩系アーティストに見られる傾向であるが、自らが創った作品を作者と結びつける、という欲求は、それ自体が制作のモティベーションになっている。
それは「作家の作風」だとか「独特なマチエール」などの言葉にも表れているように、作家と作品の結びつきというものが、創る者にとってだけではなく、鑑賞者にとっても関心事になっている。

その「作家と作品の結びつき」というアートにとっての当然のルールとされてきたものをあっさりと破壊するのが「覆面作家」である。

自らの正体を明かすことなく作品を世に送り続けること。
これは作品から作家というものを切り離すというラディカリズムの実践である。

自らの顔を一般に明かすことはなく、覆面を着けてしか登場しないちきりんは、上記の意味での「覆面作家」とは言えない。彼女のブログ記事や著作などは、あきらかに「ちきりん」という個人と強く結びつき、ブランドとして成り立っている以上、作者と作品を切り離す、というラディカリズムはない。

覆面作家にとって、自らの作品を自分自身と切り離すというラディカリズムのモティベーションは、それらが愉快()犯である、というところにある。
作品の作者が不明なまま世に送り出され、それがある一定の評価を受ける。そして「それらを創ったのは誰なのか?」という謎までもが鑑賞者にとっての楽しみになっている、という愉快な犯。

本来、アート作品、文学作品などの創作物は、それを創ったのは誰か、ということがその作品にとっての重要な情報である。
その重要な情報を消し去ってしまうこと。これは説明不足であり、逆育てゲーである

    


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2016年06月14日

Lichtenstein

西洋画と日本画の大きな違いは、西洋画では早くから遠近法が取り入れられ、平行線が
画面上では平行ではなく、遠くの点に収束するように描かれる、とよく言われる。

さらに西洋画と日本画のもうひとつの大きな違いとして、西洋画がものを"面"として捉え、陰影を
描きこむというのに対して、日本画は輪郭線を描くことでものを"線"で表す、というのもあげられる。

これら2点を見る限り、日本画は西洋画に比べてより不親切で、鑑賞者にゲームを仕掛けている、
ということ。
つまり、日本画は説明不足であり、逆育てゲーである。 

そして線画というものと普通に親しむ文化的背景で育った僕たち日本人にとって、
マンガというものもすんなりと受け入れられるはずのものであった。

遠近法があり、ものを面で捉える、という西洋文化にとってのマンガというものを考えたとき、
それはかなりアバンギャルドなものであったということが想像できる。

それまで"面"と思っていたものと、それ以外の部分の境界線を線で表すこと。
面の陰影を点の集合であるスクリーントーンで表すこと。

ロイ・リキテンシュタインは、マンガ(="カートゥーン"と言うべきか?)というものが、西洋文化に
とって、アバンギャルドである、ということを浮き彫りにする作品を創りつづけたアーティストであった。
スクリーントーンの強調された点。スクリーントーンで埋められた面を縁取る、これまた強調された
輪郭線。 
おそらく当時は普通に西洋文化に浸透していたはずのマンガというものが、実は西洋絵画の文脈に
おいては充分にアバンギャルドであったといえる、ということを知らしめるものであった。

リキテンシュタインは、ウォーホールと並んで、"ポップアート"の文脈で語られることが多いが、
上記の意味において、リキテンシュタインは、「誰もがうすうす気づいていることを改めて浮き彫りにした」
というあるあるネタ
のアーティストである、というのがふさわしい。

リキテンシュタインをただ単に"ポップ"と言ってしまうのは、あまりにも浅い。
おまえはものごとを表面でしか捉えられない人ですか?

すでに自分が属する文化(=アメリカ=西洋文化)に蔓延しているマンガ(=カートゥーン)という
リアルそのものを拡大すると、スクリーントーンのドットが現れる、ということを強調した作品群。

これを現代に置き換えると、4Kだの8Kだのの超高精細映像を観て「おお!なんとリアルなことよ!」
と喜んでいる人に、いやいやあなたが「リアルである」と思っているこの映像も、拡大していけば
最後にはひと粒のピクセルが現れるのですよ、と教えてあげること。
言い換えれば、リアルというものは、最終的にひと粒のピクセルにたどり着くところにこそあるものだ。 



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