(笑)い
2016年09月30日
2016年07月11日
以前「むてきんぐはやっぱり無敵だ」とここに書いた。
もう一度書いておくと、むてきんぐは架空請求業者に電話をかけておちょくる、というものである。
「誰もが悪であるという人をみんなで叩いて笑いものにする」という問題が気になるものではあるのだが、むてきんぐの場合は、自虐的な笑いがひとつの芸として成り立っていると思う。
むてきんぐを模倣したものがたくさん出てきたが、いずれもそこまでの芸には至っていない。
そんな中、「山田ボイス」というものが登場した。
山田ボイスは、むてきんぐと同様、架空請求業者に電話しておちょくるものなのだが、別の電話で架空請求業者側が言ったこと(主にスゴみ)を録音(サンプリング?)して、それを話が噛みあうように流すことで、気づかれないように会話をさせる、というものだ。
「おれ山田」というセリフがあるため、この電話の主は「山田」ということになっており、「山田ボイス」と言われる。
おそらくこれはサンプリングした音声を、会話に合わせてうまく流すようにしているのだと思われる。
これがただサンプリングしたものを流しているだけ、ということにいかに気づかれないようにするか、ということが腕の見せどころだ。
電話に出ている架空請求業者側は、このサンプリング音声に対して見下した態度を取るのであるが、そこがまた滑稽である、という多重の笑い。「(笑)い」になるのかどうかはちょっとまだわからないが。
そして、これは人工無能との虚しい会話に似ていることに気づく。
山田ボイスの場合は、そのサンプリングを流す操作に人間の手が加わっているので、人工無能ではなくどちらかといえば、「中国語の部屋」に近いものといえるだろうか。いや、逆のような気もする。
「中国語の部屋」とは、チューリングテストを発展させた思考実験で、中国語が全く理解できない(漢字が読めない)人を箱の中に入れ、外から渡された中国語が書かれた紙に返事を書き込む、というものだ。
この外から渡された紙に書かれた内容によってどう返すべきか、というマニュアルが箱の中には入っており、これを見ながら、その中国語がわからない人は答えを返す。
外から質問を書いて箱の中に入れる人は、「この箱の中に中国語を理解できる人がいる」と考える、というものだ。
あらかじめ用意した、架空請求業者がスゴんでいる音声のサンプリングを、会話が成立するようにうまく流す。
最後までこの仕組みに気づかれない、ということは何ともすばらしい。
「おまえはバカか?」「さっきから何同じことばっかり言ってんだよ」などと言われるが、それも滑稽である。
もう一度書いておくと、むてきんぐは架空請求業者に電話をかけておちょくる、というものである。
「誰もが悪であるという人をみんなで叩いて笑いものにする」という問題が気になるものではあるのだが、むてきんぐの場合は、自虐的な笑いがひとつの芸として成り立っていると思う。
むてきんぐを模倣したものがたくさん出てきたが、いずれもそこまでの芸には至っていない。
そんな中、「山田ボイス」というものが登場した。
山田ボイスは、むてきんぐと同様、架空請求業者に電話しておちょくるものなのだが、別の電話で架空請求業者側が言ったこと(主にスゴみ)を録音(サンプリング?)して、それを話が噛みあうように流すことで、気づかれないように会話をさせる、というものだ。
「おれ山田」というセリフがあるため、この電話の主は「山田」ということになっており、「山田ボイス」と言われる。
おそらくこれはサンプリングした音声を、会話に合わせてうまく流すようにしているのだと思われる。
これがただサンプリングしたものを流しているだけ、ということにいかに気づかれないようにするか、ということが腕の見せどころだ。
電話に出ている架空請求業者側は、このサンプリング音声に対して見下した態度を取るのであるが、そこがまた滑稽である、という多重の笑い。「(笑)い」になるのかどうかはちょっとまだわからないが。
そして、これは人工無能との虚しい会話に似ていることに気づく。
山田ボイスの場合は、そのサンプリングを流す操作に人間の手が加わっているので、人工無能ではなくどちらかといえば、「中国語の部屋」に近いものといえるだろうか。いや、逆のような気もする。
「中国語の部屋」とは、チューリングテストを発展させた思考実験で、中国語が全く理解できない(漢字が読めない)人を箱の中に入れ、外から渡された中国語が書かれた紙に返事を書き込む、というものだ。
この外から渡された紙に書かれた内容によってどう返すべきか、というマニュアルが箱の中には入っており、これを見ながら、その中国語がわからない人は答えを返す。
外から質問を書いて箱の中に入れる人は、「この箱の中に中国語を理解できる人がいる」と考える、というものだ。
あらかじめ用意した、架空請求業者がスゴんでいる音声のサンプリングを、会話が成立するようにうまく流す。
最後までこの仕組みに気づかれない、ということは何ともすばらしい。
「おまえはバカか?」「さっきから何同じことばっかり言ってんだよ」などと言われるが、それも滑稽である。
myinnerasia at 08:06|Permalink│Comments(0)
2016年07月02日
以前、中ザワヒデキの「人工知能美学芸術宣言」について書いた際に取り上げたことであるが、オープンソースの中心となるGNUというのは"GNU's Not Unix!"の頭文字をとったものである。
つまり、このGNUを展開すると下記のようになる。
GNU's Not Unix!
GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!
GNU(GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!)'s Not Unix!
ここで、「じゃあ"G"は何の頭文字なんだよ!」というツッコミは"野暮"である。
言い換えると、"GNU's Not Unix!"の頭文字をとって"GNU"とすることはボケであり、"粋"である。
つまり、ボケは"粋"、ツッコミは"野暮"である、ということになる。
主に関西のお笑いによく見られるボケとツッコミというものは、ボケに対してツッコミが入る、という様式に沿うことで笑いが成立する。漫才で、ボケ担当の側がボケたままツッコミが入らない、というのはそれを「斬新な手法」として「ツッコミなし芸」としてする以外にはあまりない。
あるいは漫才で二人ともがボケ、というものもあまりない。もしあったとしたらそれは()シュールな笑いになる。
たとえばキリンスマッシュのように。
だから「板尾係長」もキリンスマッシュも粋なのである。
ボケに対してツッコミが入る、というのは、観客に対してそのボケを強調する役割を果たし、また、それがボケである、ということに気づかせる役割もしている。つまり「ボケとツッコミ」という様式は、分かりやすい笑いのための仕組みであり、そこには(笑)いは起こりえない。
ツッコミのないボケは、()シュールであり、不親切であり、逆育てゲーである。
説明書がついていないiPhoneも、ワイヤーフレームも、2Dも、瞑想するコンピューターも、すべてはボケである。
そして、だからこそ粋なのである。
つまり、このGNUを展開すると下記のようになる。
GNU's Not Unix!
GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!
GNU(GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix!)'s Not Unix!
ここで、「じゃあ"G"は何の頭文字なんだよ!」というツッコミは"野暮"である。
言い換えると、"GNU's Not Unix!"の頭文字をとって"GNU"とすることはボケであり、"粋"である。
つまり、ボケは"粋"、ツッコミは"野暮"である、ということになる。
主に関西のお笑いによく見られるボケとツッコミというものは、ボケに対してツッコミが入る、という様式に沿うことで笑いが成立する。漫才で、ボケ担当の側がボケたままツッコミが入らない、というのはそれを「斬新な手法」として「ツッコミなし芸」としてする以外にはあまりない。
あるいは漫才で二人ともがボケ、というものもあまりない。もしあったとしたらそれは()シュールな笑いになる。
たとえばキリンスマッシュのように。
だから「板尾係長」もキリンスマッシュも粋なのである。
ボケに対してツッコミが入る、というのは、観客に対してそのボケを強調する役割を果たし、また、それがボケである、ということに気づかせる役割もしている。つまり「ボケとツッコミ」という様式は、分かりやすい笑いのための仕組みであり、そこには(笑)いは起こりえない。
ツッコミのないボケは、()シュールであり、不親切であり、逆育てゲーである。
説明書がついていないiPhoneも、ワイヤーフレームも、2Dも、瞑想するコンピューターも、すべてはボケである。
そして、だからこそ粋なのである。
myinnerasia at 10:02|Permalink
2016年06月30日
ダジャレと並んでレベルの低い笑いとされる、「下ネタ」について。
「下ネタ」の定義は、排泄に関することを笑いにするものと、性に関することを笑いにするものの2種類があるが、日本での「下ネタ」という言葉は元々は前者を指すものだったらしい。
下ネタを嫌う、あるいは意図的に避ける、 というお笑いの人は結構いる。
日本の古典芸能である落語においても下ネタはしばしば出てくることがあるのだが、三平一門では下ネタはタブーである。また、萩本欽一と欽ちゃんファミリーにおいても下ネタはタブーとされている。
「関西は笑いのためには手段を選ばないが、江戸は粋の文化であるから下ネタは嫌われる」というが、色艶をあつかった都々逸は粋であると思うのだがどうなんだろう?関西人の僕にはそのあたりはわからないなあ。
萩本欽一については、意図してか結果としてそうなったかは別として、「国民的な笑い」の象徴であるから、下ネタがご法度であるというのは頷ける。
だが、だからこそ欽ちゃんはおもしろくない。
さて表題にもある、下ネタの何がおもしろいのか、ということだが、これはダジャレと同様、謎である。
一般的に排泄、性に関する話題は公衆の面前ではタブーとされている。
すぐに思いつく「下ネタがおもしろい理由」としては、そのタブーを犯すことがおもしろい、ということである。
これは確かにある。
その場での笑いをとるために、過去に自分が犯した、自分ではそれほど大したことはない、と思っていた犯罪について話してしまったために芸能人人生を棒に振った芸能人が結構いる。
下ネタで語られる内容はタブーではありながら、それを犯すこと自体は犯罪にはなっていない。なので笑いとして成立する。
下ネタを具体的に笑い、しかも高度な笑いにしている例として僕がすぐに浮かぶのは伊集院光である。
伊集院光の高度な下ネタは、「笑いのためには手段を選ばない」関西での下ネタとは異なり、「(笑)い」と呼ぶべきものである。
伊集院光の下ネタについて考えると、いわゆる下ネタというものが単にタブーを犯すことだけで笑いを誘うものではないことに気づく。
それは「自虐性の笑い」と「あるあるネタ」である。
伊集院光の下ネタは基本的に自虐的である。
自分が短小で仮性包茎であること、ときどきウンコを漏らすこと、特殊な性的趣味を持っていること、ということで他者よりも劣っている、ということを笑いにする。
下ネタというものが、排泄、性に関するものである、ということはつまりはプライベートな問題で、普段は他人とは共有することのないものである。
他人と共有することがない個人的な場においての現象に共通性があるとすれば、それはあるあるネタになる。
つまり、「誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なこと」をネタにしていることになる。
タブーを犯すことで笑いを誘いながらも、それは自虐的であり、誰もが薄々気づいているがまだ意識上に野持っていない微妙なことを見せてくれる。
だから下ネタはおもしろい。
「下ネタ」の定義は、排泄に関することを笑いにするものと、性に関することを笑いにするものの2種類があるが、日本での「下ネタ」という言葉は元々は前者を指すものだったらしい。
下ネタを嫌う、あるいは意図的に避ける、 というお笑いの人は結構いる。
日本の古典芸能である落語においても下ネタはしばしば出てくることがあるのだが、三平一門では下ネタはタブーである。また、萩本欽一と欽ちゃんファミリーにおいても下ネタはタブーとされている。
「関西は笑いのためには手段を選ばないが、江戸は粋の文化であるから下ネタは嫌われる」というが、色艶をあつかった都々逸は粋であると思うのだがどうなんだろう?関西人の僕にはそのあたりはわからないなあ。
萩本欽一については、意図してか結果としてそうなったかは別として、「国民的な笑い」の象徴であるから、下ネタがご法度であるというのは頷ける。
だが、だからこそ欽ちゃんはおもしろくない。
さて表題にもある、下ネタの何がおもしろいのか、ということだが、これはダジャレと同様、謎である。
一般的に排泄、性に関する話題は公衆の面前ではタブーとされている。
すぐに思いつく「下ネタがおもしろい理由」としては、そのタブーを犯すことがおもしろい、ということである。
これは確かにある。
その場での笑いをとるために、過去に自分が犯した、自分ではそれほど大したことはない、と思っていた犯罪について話してしまったために芸能人人生を棒に振った芸能人が結構いる。
下ネタで語られる内容はタブーではありながら、それを犯すこと自体は犯罪にはなっていない。なので笑いとして成立する。
下ネタを具体的に笑い、しかも高度な笑いにしている例として僕がすぐに浮かぶのは伊集院光である。
伊集院光の高度な下ネタは、「笑いのためには手段を選ばない」関西での下ネタとは異なり、「(笑)い」と呼ぶべきものである。
伊集院光の下ネタについて考えると、いわゆる下ネタというものが単にタブーを犯すことだけで笑いを誘うものではないことに気づく。
それは「自虐性の笑い」と「あるあるネタ」である。
伊集院光の下ネタは基本的に自虐的である。
自分が短小で仮性包茎であること、ときどきウンコを漏らすこと、特殊な性的趣味を持っていること、ということで他者よりも劣っている、ということを笑いにする。
下ネタというものが、排泄、性に関するものである、ということはつまりはプライベートな問題で、普段は他人とは共有することのないものである。
他人と共有することがない個人的な場においての現象に共通性があるとすれば、それはあるあるネタになる。
つまり、「誰もがうすうす気づいているが、まだ意識上にはのぼっていない微妙なこと」をネタにしていることになる。
タブーを犯すことで笑いを誘いながらも、それは自虐的であり、誰もが薄々気づいているがまだ意識上に野持っていない微妙なことを見せてくれる。
だから下ネタはおもしろい。
myinnerasia at 18:07|Permalink
2016年06月29日
僕が行っていた大学は、日本語学科が日本一らしく(どう”日本一”なのかは知らないが)、日本語学科が日本一ということはつまりは世界一なわけで、世界中の日本語を学んでいる人が留学生として来ていた。
なので当時としては留学生が多い大学だったと思う。
そんな留学生の友達に、日本語の授業で「ダジャレ」が出てくるけど、ダジャレというものがどういうものかわからないので教えてほしい、と頼まれたことがある。
「ダジャレとは何かを説明せよ」と言われても、んー、「同じ言葉か似たような言葉を使って(ときには無理矢理)文を作ること」という感じで、説明してみたら何がおもしろいのかよく分からない説明しかできなかった。
あまりにもヘタな僕の説明のために全然伝わらなかったので、実際に例を上げてほしい、と言われ、僕はとっておきだった奴をいくつか言ってみた。
トイレに行っといれ。
氷屋のおっさんに怒られた、コリャー。
分野は10個もあれば充分や(十分野)。
もう、ドッカンドッカン笑いが来る、と思っていたのだが、留学生の彼は全く笑わず、むしろ目を輝かせている。
「ニホンノブンカハスバラシデスネ」と。
ドッカンドッカンを期待していただけに、こっちはがっかりだったのだが、考えてみれば似たような言葉を二つ使って文を作ることの何がおもしろいのか確かに分からない。
ダジャレで笑う、というのは日本だけのものなのだろうか?
西洋の詩は韻を踏む、ということを忠実に守る、という規則があるが、考えてみればダジャレのようなものである。
だがそれで笑うわけでもない。
日本にも古くは「掛詞(かけことば)」というものがあり、短歌などでの技として使われることもあったようだが、これも笑いではなくどちらかといえば「粋」である。
同じ言葉、あるいは似たような言葉を二回以上使う文を(無理矢理)作ること。
これの何がおもしろいんだろう?
ところが今となっては、ダジャレを言おうものなら「オヤジギャグ」などとバカにされるのがオチである。
あるいは「オヤジギャグ=つまらない」と分かっていながらそれをわざと言う、という二重の笑いもある。それとて「(笑)い」という程のレベルではないが。
だが確かにダジャレを言う時には、いずれかのレベルで笑いを誘おうという意図が確かにある。
なぜ?なぜそれがおもしろいのだろう?
ダジャレが笑いを誘うものというのは日本独特の文化のようである。
それが今では「オヤジギャグ」としてつまらないもの扱いを受けている。
今では、日本独特の笑いであるダジャレをテレビでも積極的に使っているのはデイブスペクターぐらいである。
デイブスペクターは、常にダジャレのストックを6000個持っている、と言われている。しかも日本語で。
日本独特の笑いを外国人に任せていていいのだろうか?
我々日本人はダジャレの地位を高め、日本特有の笑いのスタイルとして世界に誇るべきである。
そしてそれを外国人にダジャレについて説明してほしい、と言われた時には、「ニホンノブンカハスバラシデスネ」ではなく、ドッカンドッカンと笑わせようではないか!
なので当時としては留学生が多い大学だったと思う。
そんな留学生の友達に、日本語の授業で「ダジャレ」が出てくるけど、ダジャレというものがどういうものかわからないので教えてほしい、と頼まれたことがある。
「ダジャレとは何かを説明せよ」と言われても、んー、「同じ言葉か似たような言葉を使って(ときには無理矢理)文を作ること」という感じで、説明してみたら何がおもしろいのかよく分からない説明しかできなかった。
あまりにもヘタな僕の説明のために全然伝わらなかったので、実際に例を上げてほしい、と言われ、僕はとっておきだった奴をいくつか言ってみた。
トイレに行っといれ。
氷屋のおっさんに怒られた、コリャー。
分野は10個もあれば充分や(十分野)。
もう、ドッカンドッカン笑いが来る、と思っていたのだが、留学生の彼は全く笑わず、むしろ目を輝かせている。
「ニホンノブンカハスバラシデスネ」と。
ドッカンドッカンを期待していただけに、こっちはがっかりだったのだが、考えてみれば似たような言葉を二つ使って文を作ることの何がおもしろいのか確かに分からない。
ダジャレで笑う、というのは日本だけのものなのだろうか?
西洋の詩は韻を踏む、ということを忠実に守る、という規則があるが、考えてみればダジャレのようなものである。
だがそれで笑うわけでもない。
日本にも古くは「掛詞(かけことば)」というものがあり、短歌などでの技として使われることもあったようだが、これも笑いではなくどちらかといえば「粋」である。
同じ言葉、あるいは似たような言葉を二回以上使う文を(無理矢理)作ること。
これの何がおもしろいんだろう?
ところが今となっては、ダジャレを言おうものなら「オヤジギャグ」などとバカにされるのがオチである。
あるいは「オヤジギャグ=つまらない」と分かっていながらそれをわざと言う、という二重の笑いもある。それとて「(笑)い」という程のレベルではないが。
だが確かにダジャレを言う時には、いずれかのレベルで笑いを誘おうという意図が確かにある。
なぜ?なぜそれがおもしろいのだろう?
ダジャレが笑いを誘うものというのは日本独特の文化のようである。
それが今では「オヤジギャグ」としてつまらないもの扱いを受けている。
今では、日本独特の笑いであるダジャレをテレビでも積極的に使っているのはデイブスペクターぐらいである。
デイブスペクターは、常にダジャレのストックを6000個持っている、と言われている。しかも日本語で。
日本独特の笑いを外国人に任せていていいのだろうか?
我々日本人はダジャレの地位を高め、日本特有の笑いのスタイルとして世界に誇るべきである。
そしてそれを外国人にダジャレについて説明してほしい、と言われた時には、「ニホンノブンカハスバラシデスネ」ではなく、ドッカンドッカンと笑わせようではないか!
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